2009年11月2日月曜日

霊場 5

 光は星や隕石とも通じる。 昔は、星が山に落ちてきて、それが、金、銀、銅などの鉱物になると信じられてきた。 私は船戸氏の紹介で高賀神社の宮司と知遇を得た。 宮司は、かつて山師として仕事をしていたことがあり、鉱脈を探して山に入ったという。 この宮司も武藤姓だった。 名前を武藤三郎といい、よくよく話を聞いてみると私とは遠縁の親戚同士で、私の父方の祖父である武藤徳之助のことを知っていた。 母方の祖父である石場金治のこともよく知っていた。 若い頃、よく祖父と一緒に山に入ったと教えてくれた。
 高賀山では多種の鉱物が採取された。 そのことは修験者と深い関わりがあった。 山を舞台に生活を営む人々ー金属採取者、木地師(きじし)、杣人(そまびと)、狩人、鉄山師、炭焼きーは、平地を生活の場とする農耕民とは違った特別な存在と見られていた。 山伏といわれる修験者は、そのような山の民と関わりを持ちながら、独特の文化を形成していったのだ。 鉱山の発掘は戦国大名が本格的に始める以前は、山伏が行っていた。 修験道における護摩などの火を使う修法は、その根底に鉄などの精錬を行う踏鞴師(たたらし)などの金属文化との関わりを暗示している。
彼らの火を扱う技術は、きわめて聖なるものとして秘術になったのだ。

2009年10月30日金曜日

霊場 4

高賀山は「秀でて高き故まためでたい」という意味で名付けられたという。その由来が高賀神社に伝わる「高賀宮記録」に記されている。
「そもそも当宮(高賀神社のこと)の始まりは、霊亀年中より夜な夜な怪しい光が都の上空を飛び交い、人々を驚かしては、北東の方角へ飛び去って行った。
養老元年、御門より都の北東の位置にある山々を捜索するよう藤原家の家臣に命令が出された。藤原家の家臣団は、当山をはじめ、方々の洞、谷を捜索しても怪しい光の出所は解らなかった。数日、当所に留まったがその正体は知れず、そのまま都へ帰ることもできず、当山麓に神壇を設け、国常立尊・国狭槌尊・豊斟淳尊・泥土煮尊・沙土煮尊・大戸道尊・大戸辺尊・面足尊・吾屋煋根尊・伊弉諾尊・伊弉冉尊・大日霊貴・天忍穂耳尊・瓊瓊杵尊・彦火火出見尊・鵜鵐草葺不合尊・素戔鳴尊・天御中主尊・太玉命・天児屋根尊・猿田彦尊・金山彦尊・日本武尊を御本神とした。
八百万の神を鎮座させ、十七日間退魔のご祈祷をしたところ怪しい光は出なくなった。この山は特別高く、人々は喜んで社を建立したことから、山を高賀山と名付けた。」(「高賀宮記録」訳 『洞戸村史』)

2009年10月11日日曜日

老師と行く高野山、京都ツアー



11月14日(土)から1泊2日高野山ツアー、オプショナルで2泊3日高野山ツアーと

京都ツアーを開催いたします。


ご都合に合わせてお好きなプランをお選びいただきます。


詳しくは釈正輪オフィシャルサイト http://www.syakusyorin.com/  の

新着情報をご覧ください。


1年に1回だけのツァーですので、是非ご参加ください。







2009年9月26日土曜日

10月31日(土)出版記念パーティー 開催

場所:青山一丁目 FIAT社のショールーム地下1階 FIAT SPACE
住所 : 港区北青山1-4-5 ロジェ青山B1F (外苑のイチョウ並木のすぐそば)
電話番号 : 03-5771-7660
最寄り駅 : 東京メトロ銀座線、半蔵門線、都営大江戸線で青山1丁目下車徒歩2分 
時間 : 16:00から18:00まで  受付開始時間 : 15:40から  
会費 : 8000円

お申し込み方法 : info@syakusyorin.com
(参加される方のお名前、ご住所、お電話番号をお書き添えくだい。)
あるいはお電話でtel:03-5939-9011 釈正輪マネージメントオフィス (担当 金子)

お申し込み締め切り:10月23日
お申し込み後、こちらから案内状を送付させていただきます。当日は案内状をご持参ください。

2009年9月19日土曜日

「死ぬのに適した日などない」


釈老師の本が本日都内の書店で先行発売されました。
紀伊国屋、やえすブックセンター、丸善などの大型書店で平積みで取り扱っております。
ぜひ、お立ち寄りお求めください。

2009年9月12日土曜日

霊場 3

私が師事した阿闍梨は、日本という国が持つ神秘の力を信じていた。私が歩いた道のりを阿闍梨は先に歩いていた。阿闍梨が遷化したあと、私も師匠を見習い、夜空を見上げるようになった。十五夜には月を相手に酒を飲んだ。冬の夜空は北斗七星が高くなるので、毎晩のように星空を見た。星の光は大小さまざまに地上に降り注ぎ、その光の大小に応じた山をつくる。山は地の星なのだ。密教で行う北斗供(ほくとく)の本尊は北斗七星である。高賀山を巡る六つの神社は、高賀山を北極星とした北斗七星を模している。

2009年9月11日金曜日

霊場 2

西洋にレイラインという考え方がある。イギリスのアマチュア考古学者アルフレッド・ワトキンスが、二十世紀の初頭に提案した考えだ。彼はイギリスにある巨石遺跡群が一直線上に点在することを発見した。巨石遺跡がある場所の地名に、アームレイ、キナーズレイ、ウォーブレイなどレイで終わる場所が多いことから、この古代の聖地をつなぐ直線をレイライン(Leyline)と名づけた。レイ(Ley)という英単語は草地という意味だが、古い用語法に「光」と「まっすぐな道」という意味がある。以後、世界中で霊的な場を結びつける直線を探すレイハンターが多く現れた。私もこれに倣い、地図のうえで、実際に行った霊場に丸をつけ線で結んだ。その何本もの直線が重なったところに高賀山が日本という国のちょうど中心にあると確信していた。現在、高賀山があるのは関市だが、この関を境に、東を関東、西を関西といった。

2009年9月10日木曜日

霊場 1

私は日本の霊場を回っていた。北海道の剣山、東北の出羽三山、恐山、岩木山、磐梯山、早池峰山、葉山、関東の高尾山、赤木山、筑波山、日光山、大山、榛名山、箱根山、北陸の白山、立山、石動山、八海山、妙高山、中部の富士山、木曽御嶽、戸隠山、秋葉山、飯縄山、伊豆山、金峰山、養老山脈、伊吹山、御在所岳、近畿の熊野、大嶺山、吉野山、葛城山、金剛山、比叡山、比良山、愛宕山、笠置山、鞍馬山、生駒山、中国地方の後山、四国の石鎚山、剣山、象頭山、九州の英彦山、開聞岳、求菩提山。
サラリーマン時代に休日を使って登山した山もあり、托鉢行で旅をしながら行った場所もある。高野山で大阿闍梨(だいあじゃり)について修業していた間も、折を見ては各地を回った。何年もかけて私は日本の霊場と呼ばれる場所を歩きつくした。行った先で、いつも国土地理院の発行する地図を買って持っていて、それをつなぎ合わせて大きな一枚の日本地図を作り上げた。

2009年9月7日月曜日

新刊書籍のお知らせ

9月28日(都心部は9月24日)に釈老師がSoftBank Creative社より「死ぬのに適した日などない」というタイトルで本を出版いたします。
自殺の止まらない我が国への憂い、そして、心の弱った人たちになんとか生きてほしいという願いのこもった本です。
みずからの苦しい生い立ちを経て、老師がたどり着いた境地とは?
ぜひ、お手にとってお読みください。
詳しくは、HP(URL: http://www.syakusyorin.com)の新着情報をご覧ください。
書籍の購入は一般書店および、Amazon.co.jpにてお願いいたします。

2009年9月6日日曜日

マザー・テレサ 6

マザー・テレサは言う。
「見捨てられて死を待つだけの人々に対し、自分のことを気にかけてくれた人間もいたと実感させることこそが、愛を教えることなのです。」
私が見た先ほどの男性も自分の死期を悟り、ここへ来た。彼は異教徒からの施しをいさぎよしとせずにコップの水を拒んだが、最期にシスターらの優しさに触れ、感謝の言葉を述べた。そして来世では人のために尽くしたいと語ったという。老人と見えたが、実際は四十代だったそうだ。インドには彼のような恵まれない人々が多くいて、マザー・テレサは彼らの為に一生をささげた。
私は来訪の目的を、自分が師匠を失いどのように生きたらよいか迷っていて、ここに来ればなにかわかるのではないかと思ったと告げた。マザー・テレサの言葉はこうだった。
「あなたが日本という素晴らしい国に生まれ、男性であり、いま僧侶であるという事実は変えようのないことでしょう。ならば、その運命を受け入れ、出来ることを坦々としなさい」
ミルクティーを頂きながら話した時間は二十分程度であったろう。しかしこの出会いは、私に大きな覚醒をもたらした。それ以来、私は宗派にこだわらずに自分の道を行こうと心に決めた。

2009年9月5日土曜日

マザー・テレサ 5

私が呆然とその場で立ちすくんでいると、施設の中から小柄なシスターが出てきて手招きした。私は周囲を見渡し、私が呼ばれていることに気がついた。そばに近づくと、手招きしたシスターはマザー・テレサ本人だった。マザーは、私がここに来たことを最初の日から聞いていたと言い、「日本のお坊さんでしょう?」と尋ねた。私は合掌してから、「はい、そうです」とうなずいた。マザーは私の手を取った。そして私の腰に手をかけ、部屋に招き入れた。
マザーが作った「死を待つ人々の家」は、路上で死にそうになっている人たちを連れてきて、最期を看取るための施設だ。ヒンドゥ教徒の国で、カトリック修道女が良く思われるはずもなく、当初は地元の強い反発があったと聞く。死にゆく人たちへの奉仕を無駄なことと考える人たちもいた。しかしマザーは、最期の一瞬でも人が大切に扱われることの必要性を説いた。

2009年9月3日木曜日

マザー・テレサ 4

中からもう一人シスターが出てきて老人を助け起こすと、ふたたびコップで水を飲まそうとした。老人は頑なにコップから水を飲むことを拒んだ。それでもシスターたちは老人に水を飲まそうとした。小一時間もの間、水を飲ませようとするシスターたちと、それを拒否する老人のやり取りがあった。あきらかに老人は力尽きようとしていた。最後に、シスターはコップから水を飲ませることをあきらめ、布に水を吸わせて老人の口に運んだ。
老人は濡れた布から水を吸った。そして安堵の表情を浮かべ、涙を流し、何か言葉を口にして、事切れた。施設の中から、また何人かのシスターが出てきて、老人の遺体を部屋に運び込んだ。そのすべてを、私は少し離れたところで見ていた。

2009年9月2日水曜日

マザー・テレサ 3

その日、一人の杖をついた老人が「死を待つ人々の家」の前に立った。その老人はみすぼらしい身なりをし、体もやせ細っていた。曲がった腰で、両手を前に差し出すと、門の前で座り込んだ。一人のシスターが駆け寄り、コップに入れた水を差しだす。老人は手でコップを払いのけた。またシスターはコップの水を渡そうとしたが老人はコップを拒否し、両手を差し出して、そこに水を入れるように言った。シスターは老人の汚れた手を水で洗い、その手に水を注いだ。老人は両手に注がれた水をこぼしながら口に運び、一口含むと、崩れ落ちるように地面に倒れこんだ。

2009年9月1日火曜日

マザー・テレサ 2

誰も孤独な人間を作らない」というマザー・テレサの言葉は私に大きな感銘をあたえていた。実際に会えるかどうかわからないまま、私は門をたいた。最初に訪れたその日、マザー・テレサは隣町に行って留守だった。翌朝、訪れた時も会えなかった。昼に訪れた時も会えなかった。3日目も会えなかった。会うことを拒否しているのではないことは、対応してくれたシスターの言葉でわかった。いずれタイミングがあれば会えるであろうという希望を持って、翌日もその場所を訪れ、施設の近くにあった木の陰に立ちつくしたまま、ずっと待っていた。

2009年8月31日月曜日

マザー・テレサ 1

ふたたび師匠を失った私は彷徨(さまよ)いはじめた。
あるとき私は、衣を着て、綱代笠をかぶり、托鉢をする姿のまま、カルカッタの空港に降り立った。私には会いたい人がいた。そして、その方の居る場所を目指した。
カルカッタの郊外にその場所はあった。当時はあばら家のような粗末な場所だった。
「死を待つ人々の家」と呼ばれるその場所は、マザー・テレサが開設したホスピスだ。私は以前、マザー・テレサが来日した折に、彼女の講演を聞いていた。

2009年8月30日日曜日

裏高野山 7

私はいつしかこの阿闍梨を、自分の先祖である慈海了空禅師と重ね合わせてみるようになっていた。私の尊敬する先祖はこのような人ではなかったか。いや、この人こそ先祖である慈海了空禅師が転生を重ねて私の前に現れたのではあるまいか。
結局、最後まで私は阿闍梨から名前を呼ばれることがなかった。いつも「あんた」とよばれていた。
この大恩のある師の名を、私は故あって明かすことはできない。阿闍梨が亡くなったとき、私は托鉢をしていた。知ったのは二日後のことだ。遺骨は東北の実家に帰った。

2009年8月29日土曜日

裏高野山 6

弟子をとらない人だった。もしかしたら、私が唯一の弟子かもしれない。
ある日、修法(しゅほう)を教えようと言われ、四度加行(しどけぎょう)を授けられた。それから私の密教修業が始まった。最初の訪問から半年過ぎた頃のことだ。
密教の修法は、すべて口伝えである。孔雀明王法、北斗護摩など、あらゆる真言密教の奥義を、この阿闍梨から手取り足取り伝えられた。山に入り、斧で木を間引いてきて、自分で護摩木(ごまき)を作らされた。私はこの山で八千枚の護摩を焚いた。阿闍梨は一週間で十万枚の護摩を焚いたこともあるという。修業は阿闍梨が遷化されるまでの五年間に及んだ。私はこの阿闍梨から得度受戒を受けている。

2009年8月27日木曜日

裏高野山 5

阿闍梨は私と同じように全国を歩いていた。私が行った場所のことを話すと、「あまり寺ばかりに行ってもしょうがない。山を歩きなさい。そして山にある神社に行きなさい」と助言してくれた。阿闍梨の父は山伏で、阿闍梨も子供のころから山に入っていたという。
優婆塞の修験者として修業を続けていたが、五十歳の時に高野山に入り、そこで阿闍梨となった。高野山では彼を管長にしようという動きもあったと聞く。しかし、阿闍梨は権力争いに嫌気がさし、下野した。故郷が東北にあり、実家に妹さんが一人で住んでいた。晩年は度々帰郷することもあったようだ。

2009年8月26日水曜日

裏高野山 4

阿闍梨はよくふらりと寺からいなくなり、何ヶ月も帰ってこなかった。
寺にはちえさんが一人いて寺守をしていた。訪ねて行っても阿闍梨がいないときは、私もしかたなく托鉢行をしたりしながら家に戻った。訪ねていって阿闍梨がいたときは、何日も寺に泊まり込むのが常だった。

阿闍梨の生活は自由気ままだった。朝は遅くまで寝ていて、十時ごろ起きることも珍しくなかった。私に対してもうるさいことを言わず、寝ていたければいつ寝ても構わないと言った。夜中にふいに寺から出ていくことも多かった。

ある晩、夜十時過ぎに出かけようとするので、「どこに行くのですか」と尋ねると、「ちょっとそこまで」と言い残して出て行った。
私はこっそりと後をつけた。阿闍梨は私がついてきていることに気がついていたが、なにも言わなかった。阿闍梨が行った先は山の頂だった。崖に突き出た岩の上に座り、座禅を始めた。座禅といっても、きちんと足を組んだものではなかった。
片膝を立て、その膝の上に肘を乗せて、頬杖をついて空の月を眺めていた。

ある冬の寒い晩、阿闍梨は毛布を持って外に行き、草の上に寝転がって、星空を眺めながら寝ようとしていた。空には北極星が高く輝いていた。
私が、「お師匠、そんなところで寝たら風邪を引きます」というと、「あんたも一緒にどうかね」と逆に誘われた。
人のことを「あんた」というのが、阿闍梨の口癖だった。誰に対しても「あんた」だった。訪ねてくる尼僧にも「あんた」とよびかけていた。寺守のちえさんだけは、「ちえさん、ちえさん」と名前をよばれていた。

2009年8月25日火曜日

裏高野山 3

寺には「ちえさん」という名前の寺守のお婆さんが住んでいた。近所の寺に住む六十歳過ぎの尼僧がよく訪ねてきて、食べ物の差し入れをしていた。阿闍梨が口にする食べ物は、稗(ひえ)、粟(あわ)、黍(きび)、大豆で、白米は一切口にしなかった。玄米を食べることはあったが、「米は腹にもたれる」と言って好まなかった。
肉や魚はほとんど口にせず、尼僧が差し入れた肉や魚を食べるのはもっぱら私とちえさんであった。たまに刺身を口にすることがあったが、二、三切だった。それも醤油をつけずに口に運んだ。刺身に醤油をつけずに食べる人を初めて見た。
よく食卓に上がったのは自分で取ってきたゼンマイやワラビの山菜を、おひたしやてんぷらにした物だった。お酒は飲んだ。面白いのはビールを温めて飲んでいたことだ。冷えた瓶ビールをわざわざ火の近くに置き、温まったところでコップに注いだ。
当然のごとく泡だらけになるが、阿闍梨は、冷えたビールは体を冷やしてよくないと言って、かまわずに飲んだ。

2009年8月24日月曜日

裏高野山 2

最初は寺の庭を掃いたりすることから始め、こちらから教えを請うことはあえてしなかった。ある日、阿闍梨(あじゃり)が私に「あんた、山に薪を取りにいってくれんかね」と頼まれた。
それから私はこの寺を訪れるたびに背中に籠を担いで薪拾いに出かけた。阿闍梨が所有しているという山は寺から離れた場所にあり、私は何キロもの距離を歩かねばならず、寺に戻れば鉈(なた)で薪割りに精を出した。

私が阿闍梨に言われて嬉しかったことは、私の頭の形を褒められたことである。
私は映画『エイリアン』に出てくる怪物にも似た自分のとんがり頭が嫌いだった。ところが阿闍梨に言わせると、この頭の形は「霊骸(れいがい)」といい、とても珍重されるものだそうだ。
古代の中国では、この形をした頭蓋骨を持つと、未来を予知するなどの霊力を与えられると信じられ、為政者たちがこぞって求めた。そのために中国では、その形をした頭を持つ者の生首を切られるという悪行が横行したらしい。
唐の時代に入唐した円珍(えんちん)が、私と同じように竹の子のような頭を持っていたので、指導僧から、不埒(ふらち)な輩に頭を狙われるから注意するように、と言われたと伝えられている。天台宗寺門派の開祖となる円珍和尚になぞらえられたことは嬉しかったが、生首をかき切られるというくだりは愉快なものではなかった。

2009年8月19日水曜日

裏高野山 1

西国三十三箇所の巡礼を終えた私は、一月から五月まで北海道から東北を廻る。
そして、恐山を最後に一年の托鉢の旅を終えた。
旅を終えた私は、経営コンサルタントの看板を掲げて事業を始めた。私は剃頭(ていはつ)した頭に背広を着た。主な仕事は人材育成である。私のビジネスセミナーは、とてもユニークだと評判になり、仕事は順調に増えていった。

私が旅でであった老僧の隠居寺の門を叩くのは、華厳寺での出会いから半年以上たってからのことだ。老僧が住んでいたのは、裏高野山の廃寺同然のボロ寺だった。
明治生まれというから当時の年齢は八十歳を超えていただろう。
背は高かったが、痩せていた。
親しく話をすると、この方は高野山で修業をされた大阿闍梨(だいあじゃり)であることがわかった。当時すでに真言密教に関心があった私は、仕事が休みの日を利用して、この寺に通うようになる。

出会い 3

老僧は私に
「禅宗のお坊さんですか」
と語りかけてきた。
私は
「はい。臨済の僧侶です」
と答えた。
「次はどこに歩いていきますか」
「風の吹くまま、気のむくままです。」
私がそう答えると、老僧はにこりと笑い、首を大きく三度振って頷いた。
「お坊さまはどちらからお見えになりましたか。お衣から察するに、こちらのお坊さまではないとお見受けしましたが」
私はそう聞いた。
こちらとは華厳寺のことで、老僧の黄色い直綴(じきとつ)衣は天台宗のものではないとわかったからだ。
「高野から参りました」
老僧は答えた。
「西国三十三箇所の巡礼をしています」
「ここは最後の結願寺ですから、今日、満行されたのですか」
「ええ、私はこれで五度、三十三箇所の巡礼を満行しています」
それを聞いて私は大いに驚いた。
それからしばらくは沈黙をしていた。
私はなにを尋ねてよいか計りかねていた。
老僧の衣は薄汚れていて黄色も色が褪せていた。
一見、乞食坊主にも見える風体であったが、私はこの僧の物腰や落ち着きからただならぬものを感じていた。
私が次の言葉を捜していると、老僧が私に
「これからどうされるのですか」
と聞いてきた。
「私の師がなくなり、私は彷徨(ほうこう)しています」
私がそう言うと、老僧は微笑んで、また大きく三度頷いた。
「いつか私を訪ねてきなさい」
といい、懐から懐紙を出して、鉛筆で住所を書いて渡してくれた。
それを受け取り、私はその場を辞した。
老僧と一緒にいた時間は、小一時間ほどであっただろうか。
歩き始めて再び振り向いたときには、老僧は夕刻の陽射しの中でぼんやりとした影になっていた。それが、私の密教の師となる人物との出会いである。

2009年8月17日月曜日

出会い 2

十二月の終わりに、三十三箇所の旅を区切る華厳寺(けごんじ)を訪れた。
お参りを終え参道を下っていく頃には、太陽がすでに傾き始めていたと思う。
土産物屋が並ぶ道を抜け、なおも続く参道を歩いていると、黄色い衣を着た一人の年老いた僧が、大きな石の上に腰をかけて休んでいるのが目に入った。
その老僧は、持っていた錫杖に寄りかかるようにして寝ているように見えた。
私が老僧の前を通り過ぎるときに合掌をすると、目があった。
その老僧はゆっくりとした動作で、私に合掌を返した。私は一礼をして通り過ぎた。
通り過ぎてからも、その老僧のことが気になり、しばらくして後ろを振り向いた。
その老僧は私を見ていて、おもむろに腕を私の方角に伸ばして、手招きをした。
私は引き返した。その老僧の脇に腰を下ろすと、私を見てやさしく微笑んだ。
私が網代笠(あじろがさ)を取ると、老僧も取った。
その風貌は痩せた顔に七福神の中の寿老人(じゅろうじん)のような髭を生やし、五分刈りの頭は白髪で、大きな福耳をしていた。

2009年8月15日土曜日

出会い 1

托鉢の旅は五月から始めた。最初、近隣の岐阜市内から始めて名古屋、四日市、三重に入り伊勢神宮にお参りした。
六月から七月には中津川から中山道に入り、妻籠、馬籠を歩いた。
島崎藤村が『夜明け前』の冒頭で「木曽路はいつも山の中」と旅情を歌った道だ。
長野に入り、飯田、松本を経て、諏訪大社に参詣し、それから善光寺を詣でた。野沢温泉では湯に浸かった。ここから飯山に抜ける道は白樺並木でとても風情があり、好きだった。白隠禅師の師匠である正受老人が作ったとされる正受庵には、一週間の投宿をした。
それから新潟の妙光山に登り、電車で群馬に移動し赤城山に登った。栃木では日光東照宮に参詣し、埼玉を経て東京に来た。
それから、一度自宅に戻り、しばらく体を休めてから、八月、大阪に行った。そこから堺に行き、富田林を通り橋本に行った。
その後高野山に登り、そこで四国八十八か所を廻る祈願をする。九月から十月にかけて、この八十八か所を廻り、再び結願寺である高野山に登って終わる。
十一月中ごろには九州に渡り、太宰府天満宮にいった。十一月から西国三十三か所を巡る旅を始めた。

2009年8月14日金曜日

托鉢 5

読経を終えて振り向くと、老夫婦は仏壇に手を合わせながら泣いていた。
聞くと、今までこれほどきちんと坊さんに供養をしてもらったことがないという。
「おはぎがあるので食べていってください」と言われ、御馳走になりながら話を聞くと、夫婦には三人の息子がいたが、一番上の息子は特攻隊で死に、二番目の息子は結核で死に、三番目の息子は海軍で戦死したという。
小一時間ほど話をして、お昼時になったので、寿司でも取ろうという誘いを固辞し、立ち去ろうとした別れ際、老婆は前掛けのポケットからくしゃくしゃになった紙幣を取り出し、私に背を向け手で懸命にしわを伸ばしてから、私に手渡そうとした。
それは一万円札であった。夫婦の暮らし向きが苦しいだろうということは、家の中の様子から見て取れた。その一万円は貴重な年金であろう。私は受け取ることを躊躇した。
すると老婆は私の手を取り、その一万円札をぎゅっと握らせた。托鉢行では喜捨を受け取ることは相手に功徳を積ませることでもあり、拒否はできない。
私の目からは涙があふれた。私はその一万円を頭陀袋(ずだぶくろ)にではなく、懐に入れた。
その一万円を私は一日中持っていたが、結局、自分の為に使うことができなかった。
翌日、私は孤児院を訪れてそのお金を寄付した。

2009年8月13日木曜日

托鉢 4

ある夏の日、大阪の河内を訪れたときのことだ。
午前十時ごろ、強い日差しの中、古い長屋が並ぶ往来で「ほおーっ、ほおーっ」と声を上げていると、ある一軒の玄関から腰の曲がった老婆が出てきて、「お坊さん、よう来ておくんなさった」と声をかけてきた。
「お茶でも飲んでいったれや」と老婆が言い、「いねぇ、いねぇ(入れ、入れ)と」と私を急かした。
私が躊躇していると、「はいったらんかい!」とドスを聞かせた声を出した。
初めて聞く河内弁の迫力にけおされて、私は遠慮がちに家に入った。ガラスの引き戸をガラガラと開けると狭い土間があり、すぐに六畳ほどの座敷があった。
中には年老いた旦那もいた。座敷に上がれと勧められたが、足が汚れていることを理由に遠慮し、上がり框(かまち)に腰を下ろした。座敷の正面には仏壇があった。出されたお茶を飲んでいると、仏壇の中にあった三枚の写真が目に入ってきた。
一枚には飛行隊の制服を着た人物が写っていて、ほかに着物を着た人物、海軍の制服を着た人物がいた。
「息子さんたちですか?」と尋ねると、老婆は黙って頷いた。
私は供養させてくださいといって、汲んでもらった水で足を洗い、座敷に正座し仏壇の前で十五分ほど読経をした。

2009年8月12日水曜日

托鉢 3

岐阜近隣から始めた托鉢の行脚は、徐々に遠くに足を延ばすようになった。
歩いて気づかされたのは、金持ちの住む場所ではお布施を受け取ることができず、むしろ貧乏な人たちが住む場所でこそ、お布施を受け取ることが多いことだ。
路地を歩いていると、子どもがやってきて、私に十円玉を握らせたことがあった。
その土地に喜捨をする風習が根付いているということであろう。
心の豊かさはお金の尺度では計れないことを、托鉢行を通して学ぶことができた。
二千円から三千円のお布施が集まると、その日の食費とし、余った分は、その日に投宿した寺の賽銭箱に入れ、翌日また無一文から托鉢を続けた。

2009年8月11日火曜日

托鉢 2

托鉢行とは乞食行(こつじきぎょう)ともいい、家々を巡って生活に必要な最低限のお布施をもらい、人々に功徳を積ませる修業のことをいう。慈悲の心がなければ乞食(こじき)とかわらず、実のところ、僧を装った乞食も珍しくない。私は臨済宗で得度をした僧として袈裟を着ていたが、野宿をすることも多く袈裟は汚れていた。そんな旅の中で、人々の人情に触れることも多くあった。

特に人情の厚い場所として記憶しているところに、下呂温泉がある。
定食屋の店先に立つと中に招き入れてくれ食事を振舞ってくれた。
ある大きな旅館の女将が、無料で一番良い部屋に泊めてくれたこともあった。
下呂には水明館という老舗の旅館があり、ここの主が先祖代々正眼寺の檀家で、私も雲水時代に仲間と一緒に托鉢したときに何度も投宿させてもらった。
そのように信仰の厚い土地柄であるのだろう。
また温泉街にはそれぞれに事情を抱えて流れてきた人たちが多く働いていて、余所者(よそもの)に寛容な風土があったため、下呂温泉には何度か訪れた。中山道の旅情も素晴らしかった。
旅を続けるうちに人情に溢れる場所は日本中いたるところにあることに気づかされた。

2009年8月10日月曜日

托鉢 1

網代笠を被り、黒染めの麻衣を着て、肩から頭陀袋(ずだぶくろ)を下げ、手甲で覆った手に錫杖を持ち、脚半を付けた足には梱包用のビニール紐で編んだ草履を履いていた。
「ほおーっ、ほおーっ、ほおーっ」
大きな屋敷の玄関前で読経をしていると、屋敷の中からギャンギャンとドーベルマンの吠える声が聞こえてきた。
しばらくすると中から屋敷の主人が出てきて、私の顔を見るなり、
「なんだ、きったねぇ坊主が立っておって。帰れ、帰れ。」と言った。
途中で読経を止めるわけにもいかず早く終えて立ち去ろうと思っていたところで、私は水をぶっかけられた。
私は濡れた袈裟から水を滴らせながら、その屋敷から離れた。
観光地で土産物屋の店先に立っていると、店主に、「商売の邪魔だから他所に行ってくれんか」と追い払われることもたびたびだった。

2009年8月7日金曜日

12. 流転 4

幼い頃の私にとって、父は誇らしい存在だった。羽振りのよかった時代の父は、よく興行で三波春夫氏をよんだ。その三波春夫氏の膝に抱かれた記憶がある。私はお坊ちゃんとして優雅な幼少時代を過ごした。
結局、父がヤクザにならざるをえなかったように、私は僧侶になるしかなかったのだ。サラリーマンをしながら、私は天台宗で修業をして僧侶の資格を得た。
会社の経営に関わっていた頃は、長期の休みを取って山歩きをした。白山で「こうか」の声を聞いたのも、その頃のことだ。私の心は次第に、修業に専念したいという思いにとらわれていた。ある日、経営する販売会社の社長と経営の方針をめぐり対立し、私は辞任することになった。その際、自分の所有する株をすべて社長に買い取ってもらった。それから私は一年間の托鉢の旅に出た。

2009年8月6日木曜日

12 流転 3

私は岐阜に家を建て、私の母と、一人暮らしをしていた父方の祖母を呼び寄せて妻と二人の子供とともに住まわせた。そのとき、私の人生は順風満帆に思えた。しかし私は家庭を省みることをしなかった。結局、私は自分の父親と似た道を辿っていたのであろう。

父の最初の仕事は、愛知県にあった東海地方で最初に出来た自動車学校の教官兼副校長だった。まだ自動車が珍しかった時代のことである。自動車学校の教官をしているということは誇らしいことだった。
その後、ある会社の創業に関わり、その会社を上場させるまでに発展させた。それから自分の運送会社を作り、トラック十数台を有するまでに至った。
当時の東海地方では一番大きな会社だったと聞いている。この会社に専務として入った父の弟が手形を乱発し、会社を倒産させてしまう。
岐阜に夜逃げで来たのは、私が小学二年生のときだ。岐阜に来てからは父は自動車の販売会社をしていたのだが、次第にヤクザとの付き合いが始まり、私が中学二年生のときには自らの組を立ち上げるに至る。いつも家にいないので、その頃の父のことを私はほとんど知らない。

2009年8月5日水曜日

12 流転 2

学校を辞めて、まず私が始めたのは土方(どかた)である。解散した父の組の組員だった男が土建屋をやっていて、そこで肉体労働を三ヶ月やった。
次にもっと時給の高い解体業に移った。それも父の組のつながりであった。そのとき、大型免許を持っていなかったにもかかわらず、私は十一トントラックを運転した。その仕事は四ヶ月続いた。
次に本の訪問販売セールスの職についたが、これは自分に合わず一ヶ月で辞めた。次に私は商事会社のサラリーマンになった。時代はバブル経済に向かう途上であり、証券はとても儲かった。父の借金は三千万円ほどで、主にサラ金からのものだったが、私はサラリーマンをしながら順番に返していった。借り先のサラ金は二十数社に及んだ。その借金を数年で返し終えた。私のセールスの成績は優秀だった。小豆相場で大儲けしたこともあった。

ある日、営業で訪れたある会社で、私の顧客であった社長が自分の会社で開発した機械を見せてくれた。それは電線を覆う皮膜を自動で切断する機械だった。それまでにも同じような機械はあったのだが、大型で高価だった。その会社はゲーム機器などの製作をしていたのだが、その基盤はたくさんの配線が必要で、作業の合理化のために独自に小型の機械を独自に作った。それを見せられた私が「これは他社にも売れますよ」と言うと、私の顧客であるその社長は自分もそう思うと言い、ただ自分のところには販売網がないから、私に作って欲しいと請われた。私は販売会社を作って、そこの専務に納まった。商品はアメリカのNASAに納入されるほどにヒットし、会社は業績を順調に伸ばした。

2009年8月4日火曜日

12 流転 1

教師の仕事にはやりがいを感じていた。ちょうどテレビドラマで「金八先生」が流行っていたころで、私も熱血教師をめざした。
しかし、現実はドラマのようにはいかなかった。正眼短期大学のような厳しい教育は、大人になりかかった十九、二十歳には適していたが、まだ幼い高校生には無理があった。生徒数の多いマンモス高校では、様々な問題が相次ぎ、生徒と学校の間に立った私はいつも苦しい立場に立たされた。結局、私の教師生活は一年しか続かなかった。原因の一つに父が再び逮捕されたことがある。父が刑務所に入ると、父の作った借金が保証人である母の元へかぶってきた。私は母を援助していたが、その金額はとても教師の給料で追いつくものではなかった。私は勤めていた会社に相談をした。すると理事長の息子である副理事長が、「武藤先生のお父様はその筋の方でしたか。それではうちの学校にふさわしくありませんね」といった。
その一言で私は学校を辞めた。

2009年8月3日月曜日

11. 結婚 2

ある日、用があって正眼寺に電話をしたとき、谷耕月師が病気で入院したという知らせを聞いた。私は彼女を連れてお見舞いに行った。すると私たちは谷耕月師が入院されてから訪れた最初の見舞客だった。
耕月師は私たちが来たことを非常に喜んでくれた。そして彼女をフィアンセであると紹介すると、喜んで仲人になることを引き受けてくれた。そのことを師匠である宗覚師に報告をしにいくと、口では祝ってくれたが、なんとも寂しい表情をされたのが忘れられない。真福禅寺とは、そのまま疎遠になってしまった。
その後、谷耕月師は、子どもが生まれたときに名付け親になるなど、なにかと私たち夫婦をかわいがってくれた。そんな経緯があったのだが、結局、耕月師は結婚式に出席していない。理由は、私の父にあった。母と一緒に挨拶にいったのだが、ヤクザ者の父は相手が誰であろうと関係なくぞんざいな口を利いた。耕月師はその時まで私の父がヤクザの組長であることを知らなかった。妙心寺派の高僧である谷耕月師が、ヤクザと同席することはやはり難しかった。

2009年8月2日日曜日

11. 結婚 1

谷耕月師は、その後も正眼寺に来ることを勧めてくれたが、そのことを宗覚師は快く思わなかった。子供がいなかった宗覚師は、私に自分の寺を継がせようという思いもあったようだ。 
私は大学を四年生の秋に中退してしまった。その後の自分の進むべき道を探しあぐねていたときに、谷耕月師の薦めがあって、ある全寮制私立高校の教師兼寮監として赴くことになった。それは生前の逸外老師が私のために用意してくれた道でもあった。逸外老師は遷化される前に私に「住職にならずに、僧侶になりなさい」と言い残していた。
私自身も修業はつづけたいと思っていたものの、どこかの寺に収まってしまうことには魅力を感じていなかった。正眼寺大学で人生を変えられるほどの体験をしたと思っていた私にとって、正眼寺大学と同じように人間を作るという理想を掲げた全寮制の高校で教鞭を取ることは打って付けに思えた。
高校で教師を始めてからすぐに私は今の家内との結婚を決めた。結婚することを宗覚師に申し出たときに、師匠はへそをまげてしまって結婚式にはでないと言い出した。私は困ってしまった。

2009年7月31日金曜日

10. 公案 3

私は逸外老師に接見するために何度か妙心寺を訪れた。逸外老師は管理職で忙しかったにもかかわらず、いつも接見してくださった。
公案の答えを述べると、毎回、無言で一蹴された。
あるとき、この問いの答えは「父母未生以前(ぶもみしょういぜん)の本来の面目」を考えてみないとわからないと言われた。
これは「自分の両親が生まれる前は何であったか」という問いである。老師は、私が自分の生い立ちに苦しんでいることを見抜いておられたのだ。
私は、逸外老師の弟子としてこれからも生きていきたいという希望を持っていた。
しかし老師は、私に外の世界に出ていくことを勧められた。
「修行の場は娑婆(しゃば)の世界だぞ」
と老師は言われた。
「ここにいる雲水たちは寺の息子たちだ。彼らは良くも悪くも二、三年ここで修業すれば跡取りとして住職となる。しかしお前はもともと坊主の息子ではないのだ」
そう言われ、私は落胆した。
老師はさらに
「いつでも、ここにいらっしゃい。そのときは一服のお茶でも飲もうぞ」
とおっしゃった。
私は、つい初関の公案を通していただくことはなかった。しばらくして逸外老師は病に倒れ遷化(せんげ)されたからだ。

2009年7月30日木曜日

10. 公案 2

私は
「隻手(せきしゅ)の音声(おんじょう)です」と答えた。
これは、両手をバンと鳴らしたときに右手と左手のどちらが鳴ったか、を問うもので、初関(初めて授けられる公案)として、よく使われるものだ。
逸外老師は、
「私も公案を授けよう」と言い、
「趙州(じょうしゅう)和尚。因(ちなみ)に問う。狗子(くし)に還って仏性ありやまた無しや」
と問われた。
これは「趙州の無学」といわれる公案で、趙州和尚に弟子が
「犬にも仏性があるでしょうか」と訊き、
和尚が「無」と答えたという話である。
私は逸外老師に頂いた公案を持って翌日から参禅し、師匠の宗覚師に、
「犬には仏性はありません」
と答えると、宗覚師は、ガハハッ、と笑われた。
また翌日参禅し、今度は
「犬に仏性はあります」
と答えると、宗覚師は大声で笑われるばかりだった。
ひと月後に逸外老師がお見えになった。私は自分の答えを逸外老師にぶつけた。
老師は、むっと口を閉じたまま、何もお答えにならずにそのままどこかへ行ってしまわれた。

10. 公案 1

宗覚師が修行されたのは臨済宗国秦寺派で、逸外老師が管長になられた妙心寺派とはちがった。本来であれば、私も師匠と同じ国秦寺で修業をすべきであった。
しかし私には逸外老師の弟子でありたいという思いがあったので、真福禅寺の小僧をしながら妙心寺派の正眼寺に直参(じきさん)していた。そこで、しばしば正眼寺住職の谷耕月師の接心(せっしん)を受けることもあった。
管長職をされていた逸外老師にお目にかかる機会は限られていたが、月に一度ほど宗覚師を訪ねていらっしゃることがあった。

ある日、真福禅寺にいらした逸外老師が私を見かけて、こう尋ねた。
「谷耕月師からは、どんな公案を授けられたかね?」
公案とは禅宗において師から弟子に出される「問い」のことをいう。
この「問い」を座禅しながら熟考し、自分なりの「答え」を見出して、師と向き合う。
生半可な答えは師に一蹴される。このやり取りが、いわゆる「禅問答」である。

2009年7月28日火曜日

9. 真福禅寺 3

宗覚師は逸外老師が理事長をされていたとき、正眼短期大学の副学長をされていた。とても面倒見がよく、私たち学生を飲みに連れて行ってくれたりして、かわいがってくれた。
逸外老師が妙心寺の管長になられて正眼寺を離れられた後に、正眼寺の住職になられたのが、逸外老師の一番弟子である谷耕月(たにこうけつ)師であった。
同時に、谷師は梶浦逸外老師の後を継いで正眼短期大学の理事長になられた。
正眼寺と正眼短期大学はいわば一体であったからだ。このときに追われるように大学を去ることになるのが宗覚師である。
我々学生は当然、宗覚師が次の理事長になるものと思い込んでいた。しかし、宗覚師は逸外老師の実弟ではあったが、弟子ではなかったのだ。

2009年7月27日月曜日

9. 真福禅寺 2

私は小僧として毎月三万円の小遣いをもらい、真福禅寺から四年制の仏教大学に通っていた。三回生として編入したのだが、仏教を学問的にとらえることに疑問を感じ、あまり勉強に身が入らなかった。
それに当時は初めての恋愛に夢中になっていて、小僧としての修行もおろそかになっていた。車を得た私は、後の妻となる彼女との一泊旅行を計画していた。しかし、それは小僧の身分では許されることではなかった。私は、当時指導に通っていた町の剣道教室の合宿があるとウソをつき、彼女と旅行に出かけた。その夜、私は交通事故を起こしてしまった。警察から真福禅寺に連絡がいき、宗覚師がすぐにタクシーを飛ばして駆けつけてくれた。幸い相手の怪我は軽度のものだった。私はさんざんに叱られたが、示談金を支払ってくれたのは宗覚師である。

2009年7月26日日曜日

9. 真福禅寺 1

私が真福禅寺で得度式を迎えたのは十九歳の七月のことであった。得度とは僧侶になるための出家の儀式をいう。
宋覚(そうかく)師が執り行い、髪の最後の一結びは逸外老師が剃り落してくれた。
式には父と母が出席した。父は六年の刑期を終え、出所したばかりであった。
母は一人息子が坊主になることをあまり喜ばなかったが、父はなぜか宗覚師を気に入り、しばしば真福寺を訪れては宗覚師と酒を飲み交わす仲となった。しかし私はいささか肩身の狭い思いをしていた。息子が得度するときは、その実家が師匠寺にお礼をするのが一般的だが、我が家にはお金がなかった。一切の面倒は宗覚師が見ていてくれた。こんなこともあった。
長い間、刑務所に入っていた父が、私に迷惑をかけたお詫びとお祝いを兼ねて何か買ってやろうと言った。私は当時、スクーターに乗って真福禅寺の檀家回りをしていたので、車が欲しいと父にねだった。父は私に中古の車を買い与えた。いまでもよく覚えているが、マツダ・ルーチェという車種だった。父はその車を知り合いのヤクザから買ったのだが、結局、その代金を払えなかった。ヤクザは真福禅寺に取り立てに来た。宗覚師は黙ってその代金を払った。私は宗覚師に車を買ってもらったと同じだった。

2009年7月25日土曜日

8. 茶道

剣道とともに私がこの短大時代に熱中したことに、茶道がある。
茶道は大学の必修科目であった。そもそも茶は、臨済宗の開祖である栄西が中国から日本にもたらしたもので、茶道は臨済禅と密接なかかわりがあった。
授業で道前宗雪尼という年配の尼僧の方が茶道を教えたが、私は日曜日にもその尼僧寺に通って習うほどの熱の入れようだった。私は茶道部の部長も務めた。
正眼寺では毎年正月に正眼茶会を主宰していたのだが、これは岐阜県下でも一番大きな茶会であり、正眼寺の名物行事であった。
この茶会の実務を取り仕切るのが正眼短期大学の茶道部であったので、その責任は大きかった。この茶道部は、この地方にある他の大学の茶道部にも有名だった。
他の大学の文化祭で茶会に招かれた際に、衣を着て現れ、黙々と茶を立て、凛として立ち去る姿は、他大学のお遊びのようなサークルとは一線を画していて、一目置かれていた。私以外の学生たちもみな茶道に真剣に取り組んだ。

2009年7月22日水曜日

7.大森曹玄老師 4

この日、その場所にいたのは二、三時間ほどであったろうか。高歩院の門を出たとき太陽は西に傾いていて、私たちの影を道に長く伸ばしていた。 
門から出て百メートルほどの路地を老師とお弟子さんたちは私たちと共に一緒に歩いて、そして線路沿いの駅に向かう道にぶつかる角で、お辞儀をして私たちを見送った。私は高名な先生に会えた喜びに、駅への道のりを浮かれた気分で歩いた。
しばらく歩いて、ふと後ろを振り向くと老師とお弟子さんたちはまだ頭をさげ、合掌して私たちを見送っていた。
そして三百メートルほど歩いて、まっすぐな道が途切れて次の角を曲がるときに再び後ろを向くと、老師はまだそこで私たちを見送っていた。
その遠くに小さくなって見えた大森曹玄老師の姿を私はいつまでも忘れることはない。

2009年7月21日火曜日

7.大森曹玄老師 3

私たちは禅堂に案内され、そこで老師に「法定(ほうじょう)」の形を見せていただいた。この形は直心影流剣術の基本で、八相発破、一刀両断、長短一味の四本があり、それぞれが、春、夏、秋、冬の大自然の運行を表している。
小柄な老師が太く独特の形をした木刀を持って見せてくれた演武形は無駄な動きひとつなく、およそ二十分のあいだ私は老師の動きを食い入るように見つめていた。
演武を終えた老師は、私に「丹田を鍛えなさい」と言った。

次に直径十センチほどの大きな筆を取り、広げた新聞紙に書をしたためて見せてくれた。それから私たちにも筆を取らせ「書いてみなさい」と言った。
その時なんという文字を書いたかは覚えていないが、老師に「あんまり上手くないねぇ」と笑われたことを覚えている。

私は最後に老師に「剣を学ばせてください」とお願いした。
それから長年に渡って、折を見ては中野の高歩院に通って剣を学ぶことになる。
それはこの初めての出会いから、老師が九十歳で遷化(せんげ)するまでの十数年に及んだ。私の荒れた邪剣を正してくださったのは大森曹玄老師だ。大森老師からは謙虚であることの大切さも学んだ。

2009年7月20日月曜日

7.大森曹玄老師 2

それは夏休みのことだった。師匠寺の住職である宗覚師の親族の法要が東京であり、小僧である私も手伝いで連れて行かれることになった。
その際に僧侶でもあった成瀬教授が、宗覚師の脇導師として同行した。これを機会に東京にいる大森老師をお訪ねしようと成瀬教授が先方に手紙を書いておいてくれた。私の初めての上京である。

法要の手伝いを終えた私は、成瀬教授と兄弟子に伴われて中野の高歩院を訪れた。午後二時の約束だったと記憶している。まず奥方の書院に通された。
老師は外出中で、そこで私たちは二十分ほど待たされた。そして老師が現れたとき、約束の時間に遅れたことを老師が私たちに丁寧に詫びたことが印象的だった。
私たちのような若造に対して、まるで偉ぶるところのない人柄に、感銘を受けたのだ。 

書院では老師と成瀬教授が禅の話などをしているのを、私は脇で静かに聞いていた。話が一段落したところで老師は私の方を向き、私が持っていた防具入を見て「剣道の稽古をされてきたのですか」と尋ねられた。そのときその防具入に入っていたのは法要のための仏具だったので、私はそう答えた。

2009年7月18日土曜日

7. 大森曹玄(おおもりそうげん)老師 1

私の剣術における師である大森曹玄(おおもりそうげん)老師に出会ったのは十九歳のことだ。大学の授業にも剣道があった。しかし顧問の教師は僧侶であり剣道の有段者としては私のほうが上であった。私は部長という立場を与えられ、あまり授業にでない教師の代わりに同じ学生達の指導をしていた。その時の私は、自分自身の剣を高めるために一人で鍛錬する以外になかった。私がその頃愛読していた書物が、大森曹玄老師の『剣と禅』である。直心影流(じきしんかげりゅう)剣術の形を今に伝える大森曹玄老師は、剣をする者の憧れであった。大学で国文学を教えていた成瀬教授がたまたま大森曹玄老師と交流があり、私が老師に傾倒していることを知って、一度相見させてもらえることになった。

2009年7月17日金曜日

6. 仏道を志す

私が二回生になったときに新入生として入ってきた後輩が、
「柳ヶ瀬でヤクザ大勢を相手に喧嘩して木刀でボコボコにやっつけたあの武藤さんですか?」と訊いてきた。
「ヤクザと喧嘩した奴などたくさんおるやろ」
「いいや武藤さんのことは伝説になっています。 岐阜中で有名ですよ。」
私の過去は校内に知れ渡っていたが、この大学に入学してからの私は真面目な学生だった。授業も真面目に受け、成績も優秀だった。
二回生になったからといって後輩にむやみに暴力を振るうこともしなかった。

この頃に逸外老師が妙心寺の管長になられ正眼寺を離れられた。それに伴い学長が変わり、校風が変わった。私は七期生だったが、荒々しい気風を体験した最後の世代となた。それ以降はごく普通の大学と変わらなくなってしまった。
新しい学長は立派な方だったが、私とはそりが合わなかった。逸外老師がいらした頃には許されていたことも、新しい学長の下ではゆるされなかった。私にはそれが不満だった。

十九歳になった私は自分の将来を仏道と見定めるようになっていた。当時の正眼寺短期大学では一般学生は卒業すればそれなりの企業が受け入れてくれたのだが、私は尊敬する逸外老師の下で修行をしたいという希望を持っていた。
しかし、妙心寺管長になられた逸外老師は、もはや雲の上の存在である。ある時、大学を訪れられた逸外老師にこの思いをぶつけたところ、老師の実弟である梶浦宗覚師が住職を勤める真福禅寺の小僧になることを許された。

2009年7月16日木曜日

5. 拳骨(げんこつ)

先輩達に殴られることは日常で慣れっこになったが、元ヤクザといわれる岡野は少し違った。理由など特になくても殴ってきた。 目が合うと、「なんだその目は?」と言われる。「何でもありません」と答えると、「ふざけるな」といわれて殴られた。
誰もが怖がって、この岡野と目を合わせようとしなかった。私はこの岡野に目をつけられた。意味もなく呼び出されると、生意気だという理由で殴られた。私はこの岡野だけは許せなかった。いつか仕返しをしてやろうと思っていた。

いつも殴られている一回生が、年に一度、憂さ晴らしをする儀式があった。
「どやし」とよばれるその儀式は、学校が黙認する無礼講だった。その日だけは一回生は二回生を殴ってよい決まりになっていた。 この機会に私は岡野をやっつけよう心に決めていた。正月休みで実家に帰った折に模造刀をもちだした。

節分の日の夜、飲み会を開いた。その時に二回生をとことん酔っぱわせる。その後、二回生を真っ暗な体育館に引き入れる。そこには一回生が待ち構えていて、一斉に殴りかかる。二回生も抵抗するがなにしろ酔っ払っていて、一回生は素面(しらふ)だ。私は岡野に狙いを定め摸像刀で殴りつけた。その晩は大乱闘になった。翌朝は血だらけの体育館にみんなで倒れていた。岡野は大怪我をして病院に運ばれた。
そしてそのことは学校で問題となった。いくら学校が黙認してきた伝統行事とはいえ、怪我人をだすのは初めてのことである。この事件をきっかけに私がヤクザの息子であるという素性が皆に知れた。私はここでも怖れられる存在となった。

2009年7月15日水曜日

4. 脱走者

私には素晴らしい環境であったが、耐えられない者たちもいた。
それは決まって寺の息子達だった。 退学も落第も許さない校風だったので、辞めるには逃げ出すほかない。
同期生の何人かは逃げ出した。同室だった正田(仮名)もそうだった。大きな寺院の跡取りであることを鼻にかける話し方をする正田はみんなにいじめられた。 それに耐えられなくなり、ある日学校からいなくなった。来る者を拒まない学校だったが、去るものは追った。
いなくなったことに気が付いた我々が追いかけたら、正田は山の中の一本道をとぼとぼと歩いていた。我々に引きずり戻されると、先輩達にボコボコに殴られた。
正田は懲りずにまた逃げた。我々は先回りして駅で捕まえた。 
逃げ出す先は実家の寺とわかっていたから、その寺の門前で待ち構えて捕まえたこともある。

正田は都合四回脱走を試みた。
一本道ではすぐ見つかると知った彼は、四回目に山の中に逃げた。
入学して四ヶ月後のことである。正田の行方はそれっきりわからない。

2009年7月14日火曜日

3. 寮の一日 3

朝食の後、掃除があり、それを済ませると八時半。大学の授業は九時から始まり、午後三時までカリキュラムがびっしり詰まっていた。一般教養と専修科目の他、茶道、華道、書道があり、剣道、柔道、少林寺拳法などの武術も必修とされた。他校のようにスポーツなどの部活はなく、講義後の活動は武術だけだった。
厳しい環境であったが、私の性に合った。私は初めて真剣に、がむしゃらに勉強をした。
自分にそんな一面があったことが、自分でも意外だった。先輩達に殴られるのは辛かったが、ここでは私は疎外感を感じずに済んだ。殴られるのは後輩達はみな同じだった。先輩達はそれを「慈悲の拳骨(じひのげんこつ)」とよんだ。臨済宗は、元来、武家の宗教だったせいもあり荒々しさを売りにしていた。特に正眼時は「鬼の正眼」とよばれていて、この大学もその気風を引き継いでいた。

寮に戻ってもテレビがあるわけでもなく、楽しみといえば酒だけだった。日本酒の一升瓶を抱えて毎日部屋で飲んだ。飲んで話すことと言ったら、禅とは何か、といった真面目な話である。
私はここで、人生とはなにか、自分の将来はどうあるべきか、といったことを考える時間を得た。生まれて初めて仲間を持てたと思った。元自衛官の吉本(仮名)だけはそんな仲間に加わらず、毎日外に一人で飲みに出かけていた。消灯は九時だったが、みな蝋燭の灯りで飲み続けた。
寮の各部屋には、どこも同じように蝋燭の灯りが揺れていた。

2009年7月13日月曜日

3. 寮の一日 2

日の出の時刻には持久走が待っている。毎日四キロを雨天でも走る。
ときおり持久走の代わりに作務があった。庭の草刈などである。
それが終わって朝食だ。 当番制で学生が作る朝食は粥(しゃく)とよばれお粥よりゆるい重湯(おもゆ)で米粒が数えられた。これに漬物がついて一汁一菜(いちじゅういっさい)だ。

臨済宗では食事も修行の一環なので、楽ではなかった。一切の音を立ててはならないのが戒だった。食事中に話すことはもちろん、粥をすする音、漬物をかむ音、箸を置く音も許されない。
食堂(じきどう)に二回生と一回生が交互に座り、沢庵を噛む音がすこしでもしたら、横にいる二回生の拳骨が飛んできた。私は沢庵漬を食べるのが怖くて、飲み込むようにして食べるようになった。

2009年7月12日日曜日

3.寮の一日 1

寮の朝はとても早い。 直日(じきじつ)とよばれる当番が、振鈴(しんれい)を鳴らしながら叫ぶ「開静(かいじょう)」の声で起される。
すばやく寝具を片付け、洗面をすませ外に出ると、まだ真っ暗だ。
体育館(禅堂)に学生全員が集められ、読経と座禅で一日が始められるのが午前四時半。約四十分の読経は一週間で経本一冊の暗記を求められる。
その後、およそ一時間の座禅がある。
壁を背に二列に向かい合って座り、真ん中を寮監と二回生の直日が警策(けいさく)を持って監督する。警策とは座禅中に眠気を催した者や心を乱した者を打つ痛棒のことで、これを行ずる者には力の加減など繊細な技術が必要なため、本来なら修行の進んだ者しか行うことができない。
寮監は資格を得た僧侶であったため上手に警策を打てたが、二回生は力任せに打ちつけてきたので、打たれるほうはたまらなかった。

2009年7月10日金曜日

2.仲間たち 4

三部とよばれるのは私のような一般学生だった。一般学生といっても曲者ぞろいだった。寮で同室だった吉本(仮名)は元自衛官だった。 当時二十代半ばだった彼は背が高く筋骨隆々としていて、無口だった。この吉本君には、かの先輩の岡野(仮名)も一目置いていた。なぜなら一度殴りかかろうとして、逆に投げ返されてしまったことがあるからだ。聞けば極真空手の有段者だという。自衛隊でレンジャー部隊の教官をしていた彼がこの大学にやってきた所以はこうだ。新宿の歌舞伎町でやくざ五人を相手に喧嘩をし、相手を半殺しの目にあわせたせいで自衛隊を懲戒免職処分となる。
そして行き場のないまま彷徨しているときに、なにかの縁で逸外老師に出会い、そのままここに連れてこられたのだという。

一般学生の中には知的障害のあるものもいた。 九州の綱元の息子だという彼がこの大学に来た理由はわからなかったが、逸外老師は来るものを誰も拒まず、とくに我々のような風変わりの者を殊の外かわいがった。

2009年7月9日木曜日

2.仲間たち 3

二部生とよばれる学生は企業からの派遣だった。この大学が設立された時、理事長である逸外老師の「人間を作りたい」という理念に共鳴した企業が多額の寄進をした。そして将来の幹部候補生たちを送り込んだ。

当時の逸外老師は有名人で、各界からの信頼が厚かった。特に話題になったのは、巨人軍の川上哲治氏が逸外老師に師事していたことだ。私は在学中に正眼寺で何度も川上監督の姿を見かけた。長島茂雄氏や王貞治氏と言葉を交わしたことさえある。巨人軍が破竹のV9を達成した時代のことだ。

同期だった寺田(仮名)は大日本土木から派遣されており、東大出の二十五歳だった。何事においてもリーダーシップを発揮していた彼は会社に戻ってからも出世コースに乗り、現在、幹部として活躍していると聞く。

2009年7月8日水曜日

2. 仲間たち 2

入学したその日に私はバリカンで髪を切られ丸坊主にされ、五人部屋の寮に入れられた。皆より一ヶ月遅れて入学した私は、すぐに周囲に溶け込めるかどうか心配だった。部屋は先輩である二回生も同室で、新入生に睨みをきかせていた。衣を着たその先輩の名は岡野(仮名)といい、年齢が三十歳に近く、背も高く、皆に怖がられていた。
衣を着ているのは一部生の証で、袴姿の二部生、三部生と区別されていた。
一部生というのは将来僧侶になるために入学した学生をいい、寺の息子が多かった。岡野もどこかの寺からこの大学に送られてきたのだが、ガラが非常に悪かった。
いつも衣の袖を大きく振りながら歩き、むやみに人を殴った。
寺の出でもあるにもかかわらず元やくざという噂があり、実際、小指がなかった。

同期の一部生には寺の息子もいた。
正田(仮名)という名の大きな寺院の息子とは、同室だった。寺が跡取り息子をこの大学に入れたがるのには理由があった。禅宗では、四年制大学卒業後、三年間の僧堂での研修が教師資格(住職の資格のこと)の条件だった。
しかし、この大学を二年終えると二年間の僧堂での研修と同等に扱われたため、卒業後、あと一年修行をすれば資格を得られた。つまり住職への最短コースだった。
しかも正眼寺は臨済宗の中でも権威があったので、ここを出ればエリートとして扱われた。だから寺の住職たちはこぞって息子達をこの大学に入れたがったのだが、当の息子達は来るのを嫌がった。
というのは天下の鬼僧林(おにそうりん)とよばれるほど、修行が厳しいことで有名だったからだ。

2009年7月7日火曜日

2. 仲間たち 1

二度目に栗山に大学へ連れて行かれたときにも、また逸外老師に会った。
その時、老師は私に「あんたはどこの出身かね?」と訊ねた。
私は「岐阜です」と答えた。 
すると老師は、にこっと笑い「あんた、お坊さんになりんさい」と言った。

この大学への進学を決めたが、私の家にはお金がなかった。
けっして高い入学金ではなかったが、その時私の母がなんとか集めてくれたお金は入学金の半分に満たなかった。
そのことを大学に伝えると、事務局を通して「お金のことは後から考えればええ」という老師の言葉が返ってきた。
入学した後も私は授業料を払うことができなかったが、特に催促されることもなかった。一緒に入学した仲間たちにも学費を納めていない者たちが多くいた。
そこは私と同じように事情を抱えた人間が集まる不思議な場所であった。

2009年7月6日月曜日

1.正眼短期大学 2

預けられた寺には一歳年上の栗山(仮名)という小僧さんがいて、正眼短期大学の一回生だった。彼が冬休みで寺に帰っていた時に、私をバイクの後ろに乗せて彼の通う大学に遊びに連れて行ってくれたことがある。
学校の長い渡り廊下を二人で歩いている時に、向こうから小柄で凛としたお爺さんのお坊さんがやってくるのに出くわした。栗山がすぐに挨拶をするとそのお坊さんも合掌して挨拶を返した。
そして私のことを見て「新入生かね?」と訊ねた。
いきなり声をかけられ戸惑っている私の代わりに、栗山が私の素性を説明した。
聞き終わると、そのお坊さんは私のほうを向き、この大学に来るように薦め、そして「待っているからね」と付け加えた。それが当時、正眼寺の住職で大学の理事長でもあった梶浦逸外老師との出会いだった。

卒業を控えていたが、私には行き場がなかった。
剣道の特待生として推薦を受けていた大学への進学も、また初級公務員試験合格もふいになっていた。そんな時に、この大学の存在を知って、私は学校案内のパンフレットを取り寄せた。
全寮制のとても小さな大学だった。 短大だから一回生と二回生しかなく、それぞれの定員が三十名だった。モノクロのパンフレットは当時のものとしてはみすぼらしく、そこに写っていた学生はみな剃髪をした丸坊主、服装は袴姿。 
まるで明治か大正時代の格好だった。持参品に鎌、斧、地下足袋と書かれていた。 
作務に必要とのことだった。
作務とは禅寺で禅僧がおこなう農作業や掃除などの労働をいう。 
禅宗には「一日作務なさざれば一日くらわず」との言がある。
もともと「般若林(はんにゃりん)」とよばれる僧侶のための修行道場があった場所を、一般学生を受け入れるよう学校法人化した所だったので、そこでの生活は僧堂そのものだった。

2009年7月5日日曜日

思い出 1.正眼短期大学 1

私は木立の中にある長い石段の前に佇んで、これからの新しい生活に不安な思いをめぐらせていた。私は、鎌、斧、地下足袋の入った鞄を肩に掛けなおし、重い足取りで一歩一歩、石段を登った。
山門をくぐると本堂の前にしだれ桜の木があったが、花はすでに散った後だった。
ここは岐阜県美濃加茂市の伊深(いぶか)にある正眼時(しょうげんじ)という臨済宗妙心寺派のお寺で、ここの境内にある正眼短期大学というのが私のこれからの生活の場だった。

その大学は「伊深の少年院」ともよばれ、地元のの不良少年たちに怖れられていた。少年院に行くはずだった私がそれを免れたのは、家庭裁判所の判事が私の家庭環境では少年院に送っても更生は難しかろうと考えたからだ。
代わりに私は裁判官の遠戚である住職がいる禅寺に預けられることとなった。
その寺から二十五キロの距離、昔で言うならば六里の距離を二時間半かけて高校に通い、皆より遅れて五月に卒業した。

2009年7月4日土曜日

釈 随文記

映画劔岳【点の記】に出てくる修験者の修行について解説。

先ず、古来の宗教は自然と同化を試みるアメニズム性が強いものであった。
大自然の驚異の前には、人間は何等成す術がなく、よって畏敬の念を抱かざるにはおれなかったのである。
人間はやがてそれらを【神】と崇めるようになっていくのであるが、同時にその【神】の功徳に肖かろうと、神に最も近く、神が宿ると考えた深山幽谷の山々へと分け入る様になる。
しかしそれはまた「死」を意味するものでもあり、一般の人間には近付きがたい世界でもあった。

修験者(一般には山伏とも言われる)の祖、役行者(えんのぎょうじゃ)と呼ばれ、崇拝される六世紀に実存した人物、役小角(えんのおづぬ)は、日本各地の山岳で、自ら神・仏に相まみ得えんと誓願し、ひたすら孤高な抜粋抖藪修行をしたという。
神と魔が表裏一体の如く、山もまた神と魔界が混然一体と織り成す世界なのである。
行者は山岳に於いて、神為らず、悪魔・悪鬼・悪霊・悪孤狸等の魑魅魍魎もまた、御仏の慈悲の内にあると体感するのである。

天魔外道皆仏性
四魔三障常同来
魔界仏界常同理
一相平等無差別

2009年7月3日金曜日

編集後記

皆様、老師の運命と宿業(千日回峰行)を楽しんでいただけましたでしょうか?

さて私は先日、劔岳 点の記を観てまいりました。
既に観られた方は、お分かりになるかと思いますが、あの映画は雪山で不動呪(真言?)を唱えている修験者の映像で始まります。

私は、インパクトのあるその映像に最初から心を奪われました。
映画の所々で、その”行者さん”の姿が映し出されました。

映画の主人公はもとより、その修験者が気になった私は、老師が満行された千日回峰行とは、あの映像のように厳しい場所でされたのかを映画鑑賞後、訊ねました。

それに対する老師の返答は、全く同じような場所で同じことをしていたとのことでした。
そして、運命と宿業にもかかれているように、同じような窟(いわや)に49日の間籠もっていたとのお話でした。
実際に文章だけで老師の修行を想像していたのと、実際に映像で見たものとでは、全く似て非なるものでした。
映像からうかがえる、想像をはるかに超える厳しい山奥で、こんなことを3年間も籠もってしていたのかと思うと、私たちの日常からは遠く離れた異次元の世界にいらした方なんだなとつくづく思ってしまいました。

千日回峰行の厳しさはそれを行った者にしかわからないと思いますが、その10万分の1の疑似体験をこの映画でさせてもらいました。

ご興味のある方は、こんな観点からも劔岳 点の記をご覧になられると、また違った楽しさがあるかもしれません。


(記 金子)

*ブログ行雲流水の6月23、24、25日に老師の映画の感想が載っています。まだお読みになられていない方は是非そちらもご覧ください。

2009年7月2日木曜日

19. 宿縁

曹洞宗の発心(ほっしん)僧堂で修行をしているさなかに、父方の叔父から電話があり、父が死んでいたことを知らされた。その時私は、葬儀には立ち会えなかった。
死因を聞いたが、叔父は教えてくれなかった。私は、警察に行って自分で調べた。
実際に死んだのは知らされたよりも何年も前のことだった。買い物袋を両手に持っていたところを背後からナイフで刺されたそうだ。
私は殺した男に合わせるように警察に頼んだが、殺した男は金で雇われたチンピラで、調べてみても事件の背後はわからないとのことだった。
それを聞かされたときの私の感情は、怒りや悲しみよりも諦めに近かった。

数年前、年老いた母が、実の父親は彼ではないことをポロッとこぼした。
それを聞いたとき、驚きはしたが、意外ではなかった。むしろ、それが事実であれば、ホッと安心できることだった。母からは、その時同時に実の父の名前を聞かされた。それを聞いたとき、私は全ての謎が解けた気がした。その人がなぜ私にそこまで親切にしてくれるか理解できたし、何より自分が、日に日にその人に似ていくことが分かったからだ。

私が生まれたとき、一つの嘘があった。その嘘は私の人生を苦しくした。
しかし、今はっきりわかるのは、それが私の背負った宿業であったということだ。
人はそれぞれ自分の宿縁を持っている。
そもそも、誕生日の「誕」という字には、「うそ・いつわり」という意味がある。
誕生日とは、私という嘘が生まれた日なのだ。

私は自分の宿縁を受け入れ、やっと本当の自分と向き合うことが出来た。


2009年6月30日火曜日

18. 宿命 2

山の水が名水であると聞き及んだ船戸氏は国の林業構造改革事業の一環として、板取川の近くで天然水を汲み上げ、ペットボトルに入れて「高賀の森水」として売り出した。
その水は、シドニーオリンピックにおけるマラソン金メダリストの高橋尚子選手が愛飲したことで、話題になった。その後、高賀神社の手前に井戸を掘り、百円の初穂料を取ることで水を汲ませた。
「神水庵」と名付けられたその場所には、毎年二十万人が訪れるという。その場所は泉があった場所から数百メートル離れたところだった。

船戸氏が村全体の利益を考えていたことは間違いない。しかし、なにかが山の怒りにふれたのか、その後、車を運転中に山道のカーブでハンドルを切りそこない他界してしまった。
洞戸村は市町村合併によって、関市に組み込まれた。 村がなくなることによって武藤村長も引退を余儀なくされ、高賀修験復興の機運も萎んでいった。
そんな折に、私に大阪の寺で住職にならないかという話が持ち込まれ、受けることにした。

2009年6月29日月曜日

18. 宿命 1

千日回峰行を終えた私は、引き続き「六社巡り」をする。
これには洞戸村の武藤村長も協力してくれて、村をあげて高賀修験復興の機運が高まった。また天台宗の行者が岩場から琵琶湖に飛び込む荒行にならって、私は「入水往生(じゅすいおうじょう)」という行を始めた。これは、三千淵で亡くなった三千人の僧侶の慰霊と、また水の事故で亡くなった方々の供養の意味を込めて、橋の上から投身をした。これは毎年、夏に行い、今も続けている。

これらのことをおこなったが、私が望んだ蓮華峯寺の復興はならなかった。
その大きな理由は私の支援者であった船戸行雄氏が亡くなってしまったことによる。船戸氏は蓮華峯寺再建のための青写真を描いていた。しかし、私の望んだ泉の湧く場所ではなく、自分の所有する土地でのことだった。私が閼伽水(あかすい)を汲んだ泉は、船戸氏が作った林道の土砂によって埋もれてしまった。船戸氏が作った林道は山を切り裂いて、動物たちの棲む場所を奪った。山にいた猪やサルたちは、しばしば里にあらわれ作物を荒らした。

2009年6月28日日曜日

17.四十九日の岩屋籠り 2

昼頃になると読経をした。毎日唱えたお経は、般若心経を二十一巻、大悲呪を三巻、観音経を一巻、阿弥陀経を一巻である。それから光明真言を百八回唱え、次に不動呪を百八回を十回繰り返した。 そのあとはひたすら座禅に打ち込んだ。夜になると北斗護摩を焚いた。

昼食はとらなかった。夕食はうどん、そば、冷麦、インスタントラーメンなどの麺類に、茶碗一杯のご飯だった。米が炊けるように飯盒(はんごう)も用意していた。野菜は叔母が作ってくれた煮つけがあった。岩屋のそばに小さなテントを張って荷物の置き場とした。

沢の近くにスコップを持っていき、穴を掘って用便をした。紙は使わずに泥団子をこね、それで尻を拭った。そのやり方は『正法眼蔵随門記』に書かれていたものに則っていた。

季節は五月の新緑の頃となった。
山に登山者が訪れるようになり、岩屋のなかに私の姿を見つけると静かに手を合わせて通りすぎた。時にお賽銭が置かれていることもあった。道元の教える只管打座(しかんだざ)とは、座っているその姿が仏であるというものである。身体は仏であった。 私は仏に仕える行者は身綺麗にするべきと思っていた。禊は、朝、昼、晩の三回行った。毎日、ふんどしと肌襦袢を変えた。

七日ごとに山を降りて、洗濯物を持ち帰った。洗濯は叔母がしてくれていた。叔母は野菜の煮つけをタッパーに入れて用意してくれていた。私は一週間分の食料を持って、ふたたび山に戻った。七日ごとを七回くり返した。 
最後の七日は断食だった。その時は護摩も焚かず、ひたすら座り、眠るときも座ったままだった。山籠りを続けているうちに感覚が鋭敏になり、風が運ぶ匂いや音がわかるようになってきた。朝、家々で用意する朝餉(あさげ)の匂いを嗅ぎ、里で子供たちが学校に向かう声が聞こえた。
そのようにして私は修行を終えた。

2009年6月27日土曜日

17. 四十九日の岩屋籠り 1

千日を歩き終えた私は、そのあと四十九日の間、不動の岩屋に籠もった。
四十九は仏教で一番大事にされる数字であり、人は四十九日で生まれ変わるといわれている。その四十九の岩屋籠りを千日回峰行の満行の証としたかった。

毎朝三時ごろ起きた。お椀に一杯の水を汲み、それで顔を洗い、指に塩をつけて歯を磨いた。臨済宗では最低限度の水で洗面することを教えた。雲水だった頃は、柄杓(ひしゃく)一杯の水で洗面をしたものだった。そのことを節水といった。

禊は近くの沢でおこなった。 そこで毎日新しいふんどしを締め、新しい肌襦袢を身につけ、修験装束に着替えた。岩屋の中で毎日、不動護摩を焚いた。そのために、本尊の不動明王の仏像を岩屋に持ち込んでいた。護摩壇(ごまだん)は、村の人に持ち運びの出来るものを作ってもらった。一時間ほどで護摩を終え、夜明けまで座禅を組んだ。それから外に出て粥を作った。

朝食は一杯の粥と梅干、塩昆布、胡麻である。それからまた岩屋に戻り、ひたすら座禅を組んだ。 岩屋の中で座禅をしていると、川のせせらぎが常に聞こえてきた。

2009年6月26日金曜日

16. めぐる季節 2

山の中腹に猪がいた。猪は私を見ると体をひるがえし、尻をむけた。 
次の日も同じ場所に猪はいた。またくるっと後ろをむいて、ぶるぶると尻を振るわせた。最初その行為が何を意味するかわからなかった。くる日もくる日も猪は私を見ると尻を見せた。

かつて私を追いかけてきた猪であろうか。また追いかけて気やしないかと思うと怖かった。その猪がウリ坊を連れていたので、メスだとわかったときに、もしかしたらあの猪は私に交尾を迫っているのかもしれないと思いついた。そう思うと私は森の一部として受け入れられたと思えてうれしかった。

木々が芽吹きはじめた。幹を抱いて耳を当てると、木が根っこから水を吸い上げる音が聞こえてくる。草や木や石ころにも神や仏があるという。丸三年かけて千日の山歩きをした。そして、自分が草や木や石ころと同じということに気がついた。

千日を歩き終えたとき、やりとげたという感慨は浮かんでこなかった。
ただ自分が自然の中にいるという思いだけがあり、それが至極当然のことに思えた。

2009年6月25日木曜日

16. めぐる季節 1

春が巡ってきて、私の心は蛇が脱皮して古い皮を捨て去るように変化していた。
修行を始める前に持っていた世間にたいする恨みや怒りといった感情が消え、私を苦しめた孤独も気にならなくなっていた。
以前は人恋しさのために、訪ねてきた客になんどもお茶を勧め、帰るのを引き止めていたが、そのようなこともなくなた。

縁側で客が話しをしているのを私は庭の掃除をしながら聞くともなしに聞いていた。
庭の掃除をしながら、私は仏陀の弟子であったチューラパンタカのことを思い出していた。

彼は愚鈍で人々の笑いものであったという。
兄のマハーパンタカは物覚えの悪い弟のチューラパンタカのことを叱り、祇園精舎のそとへ追い出してしまった。
チューラパンタカは門の前で立ちすくんで泣いていた。
そこに通りかかった仏陀が声をかけた。
「精舎に戻るがよい。 お前は自分が愚かだと嘆いているが、真に愚かなものは、自分が愚かであることを知らぬのだ」
そして、彼に布と箒を与え、「塵をはらえ、垢を除け」という言葉をくり返し唱えながら、精舎を掃き清め、精舎に集まる人々の足を拭うようにいわれた。

チューラパンダカは、その言葉を一心に唱え、毎日掃除を続けた。
そしてあるとき「塵をはらえ、垢を除け」とは、自分の心の塵垢であることに気がついた。
いつも自分の愚かさを嘆き悲しんでいた私だったが、「馬鹿の一つ覚え」のごとくに仏陀の言葉を唱え続けて悟りを得たチューラパンタカのように、私も自分の道を歩き続けるほかはなかった。

仏陀の言葉に「寒さと暑さと、飢えと渇えと、太陽の熱と、虻と蛇と、-これら全てのものに打ち勝って、犀の角のようにただ独り歩め」とあった。

私は淡々と山を歩き続けた。

2009年6月24日水曜日

15. 雪山の遭難 3

祖父は雪山で遭難したら「動かずに雪洞を掘れ」と教えてくれた。
いわゆるカマクラのことである。山師は雪山で大木の幹に雪を積み上げ雪洞を作るのだが、そのとき枝に縄をくくりつけ上から雪洞の中に下ろす。
その縄が作った穴は中で火をおこしたときの空気穴だった。 私は道を作ることをあきらめ、近くの木の下に雪を積み上げた。雪洞を作り上げるのに、一時間ほどかかったであろうか。腰に巻いていた貝ノ緒を枝にかけて、雪洞に吊るした。
しかし火をおこすことはできなかった。私は着ていたものを脱いで裸になった。
それから横になり、脱いだ服を体にかけた。服は着ていて肌に密着させるより、蒲団のように上にかけて中に空気を入れたほうが暖かかった。それも祖父から教わった知恵であった。

雪洞の中で凍えながら、私は思った。 私はこの修行に驕りはなかったろうか。
一人で出来ると思ったのは思い上がりではなかろうか。
比叡山の回峰行を冬場に行わないのは、このようなことがあることを知っていたからであろう。一人で行わないのもそうであろう。
わたしがもしここで死んで迷惑をかける人たちのことを思った。
私が修行をしようと思ったことは、私のエゴではあるまいか。
自己満足のために他人に迷惑をかけてはいないだろうか。
私は山を侮ってはいなかったであろうか。

三年も毎日歩いた山で遭難するはずがないと思っていた。しかし、その驕りを、山の神はお許しにならなかったのであろう。それは三月のことで、もうすぐ千日を終えるという時期のことだった。

どれほどの時間が過ぎたであろうか。遠くから「おーい、おーい」と呼ぶ声が聞こえた。雪洞から出て、私は大声をあげて彼らを呼んだ。しげさんの姿が見えた。 
他に畳屋の源さんら気作の村人が三人いた。
彼らは私を見つけると体にロープを巻きつけ、スコップで雪を掻き分けながら道を作り、斜面を降りてきた。助け上げられたときには、すっかりと太陽が落ち、あたりが暗くなっていた。

2009年6月23日火曜日

15. 雪山の遭難 2

私の体は腰まで雪に埋もれた。動こうとしたが、身じろきができなかった。
手で目の前の雪を掻き分けた。掻き分けた雪を手で押さえつけて固め、その上に雪の中から引き抜いた足を乗せて、さらに踏み固めた。
前に進もうとすると、また腰まで雪に埋まった。再び手で雪を掻き分けて固めて段をを作った。その段に体を乗せ、前に進んだ。

断崖というほどの急な斜面ではなかった。周りには木々が立ち並んでいた。
ところが体は前に進まなかった。手は赤くなり、痛んだ。
雪を掻いては、手を脇の下に挟んで暖めることを繰り返した。
次第に指の感覚もなくなった。

一メートルほど進む頃には、疲労困憊していた。汗をかくとかえって体が冷えた。 
体を動かさないように動かしながら、少しずつ登った。
二メートル進むのに二時間ほどかかったのではなかろうか。 時計をつけているわけではなかったが、雲の上で太陽が高く昇っているのが分かった。
山で死ぬとはこのようなことかと思った。

私は映画『八甲田山』を思い出した。あの映画を見たのは正眼短期大学の一年生の夏休みだった。正眼寺が毎年行う夏期講座に学生が手伝いに駆り出された。
二泊三日の講座を終えてから、みんなで柳ヶ瀬にくりだした。
岐阜の花火大会があって見た。そのあと二十人ほどの仲間と深夜上映の映画館に入った。

日本陸軍が八甲田山で行った雪中行軍の演習中に吹雪に遭遇し、二百十名の隊員のうち百九十九名が死亡した実際の遭難事故を題材にしたこの映画は、高倉健をはじめとしたオールスターキャストで、公開当時に大きく話題になった。
映画を見ながら、なぜこの程度の雪で遭難するのだろうと不思議に思った。
映画を観た後、みんなで朝まで飲んで騒いだ楽しい思い出があった。

2009年6月22日月曜日

15. 雪山の遭難 1

山に雪が降った。
私が起きるのは深夜の一時過ぎだが、叔父のしげさんはいつも私より早く起きて竈に火を入れていた。木作の家ではまだ薪を使って火を起していた。
私が目を覚ますと、いつも熱いお茶を入れてくれた。時々私のかわりに塩おにぎりを握ってくれたが、しげさんのむすぶおにぎりはまんまるだった。

山道では木のスコップで積もった雪を掻き分けながら進んだ。
山から降り、食事の時間になるとしげさんが味噌汁をつくた。
叔母は知的障害のある叔父になにか役割を与えようとして、味噌汁を作るのはいつもまかせていた。冷えた体に熱い味噌汁がしみた。しげさんは「ぼう、旨いか」と聞き、私が「美味しい」と答えると、何杯でもおかわりを持ってきた。

ある日、目を覚ますと外は吹雪だった。
お茶を持ってきたしげさんが、心配そうな顔をして「行くんか?」と聞いた。
私は黙ってうなずいて、かんじきを履いて出かけた。木々に囲まれた山の中は風もなく暖かだった。
登山道の石段は雪が積もっていたが、すっかり記憶した石に足をかけて峠まで登った。峠から山頂までの尾根では、昨日スコップで作った道も、すでに埋もれていた。
踏みしめると脚がずぼりと雪に埋まった。頂上では風が強く、読経をする私の顔に雪があたった。雲のせいでご来光を仰ぐこともかなわず、読経を終えると、早く山を降りようと思いながら、私は尾根道を下った。
尾根道が急な坂になっているところを、私は飛び跳ねるように降りていった。
その時道を踏み外し、山の斜面を二十メートルほど転げ落ちた。

2009年6月21日日曜日

14. 不思議な炎 3

山には死者の霊がいると古くから信じられてきた。
青白い炎を人魂だと思ったのは、お盆の時期だったせいではない。
以前同じ場所で、不思議なものと遭遇した経験があった。

それは二年目の冬、一月八日のことだった。
午前四時ごろ、岩屋を越え足元だけを見ながら一心に登っていると、ふと人とすれ違う気配を感じた。驚いて振り向くと二メートルほど先に人影が見え、むこうも振り向いて私のことをみた。
その姿は青白かった。長い髪をしていたので女性とわかった。
目や鼻や口は輪郭がはっきりせず、上半身はぼんやりとしていて、下半身は闇に隠れて見えなかった。見つめていたのは二秒ほどであったろうか。
「見てしまった」と思い、すぐに目をそらした。全身から鳥肌がたった。
それに囚われてしまうと山を登れなくなるので、すぐに気持ちを入れ替え一心に山を登った。日付を正確に覚えているのは、その日から雪が降り出し、何日も続いたからだ。

幽霊らしきものを見たことは、もう一度あった。それは三年目の秋口のことで、場所も同じ岩屋を少し登ったところだった。その時もはっきりとすれ違う気配を感じた。 
おそるおそる振り返ると五メートルほど先に、男三人の足だけが見えた。
それが人間ではないことはすぐにわかった。全く足音が聞こえなかったからだ。
ニッカポッカを穿き、編み上げ靴を履いていたので、軍人達のようにも見えた。
上半身の見えない男達は、すぐに暗闇の中に消えた。

不思議な出来事はこれだけではない。
この岩屋に籠もって声明(しょうみょう)を唱えていると、蝋燭の火が高く燃え上がり火柱になった。火柱の高さは一メートルにも思えた。 
この現象は何度か起きた。それは毎年お盆の時のことだった。

2009年6月20日土曜日

14. 不思議な炎 2

その岩場で不思議な光景を見た。青白い炎がいくつも揺らめいて空中に浮かんでいた。 見た瞬間、人魂(ひとだま)だと思った。それはお盆の時期だった。
後で思い直して、あれは地下から燐(りん)が染み出して燃えていたのではないかと思った。

山には鉱物が沢山あった。山師だった祖父が、青白いところを目指していくと鉱脈にぶつかるという話をしたことがあった。それが見えるのは暗い時間だったので、祖父が山に入るのは決まって夜だった。昔の修験者も、あの青白い炎を目指して鉱山を探したに違いない。

山には死者の霊がいると古くから信じられてきた。
青白い炎を人魂だと思ったのは、お盆の時期だったせいだけでない。以前、同じ場所で、不思議なものと遭遇した経験があった。

2009年6月19日金曜日

14. 不思議な炎 1

沢沿いの道を登りきったところに、岩から水の染み出すところがあった。
手で水をすくい少しだけ口に含んで渇きを癒す。山登りをしている最中はゴクゴクと沢山飲むと、かえって疲れが増すので、喉を湿らす程度がちょうどいい。

山水が出る場所から先は、広葉樹の森になった。枝葉が空を覆い隠し、夜は星の光も差し込まず、昼間も暗い。地面の植生も変わり、普通の笹ではなく、熊笹があらわれるようになった。山の斜面に大きな岩があらわれ、しばらくすると不動の岩屋にたどりつく。不動の岩屋を少し登ったあたりに巨石軍が並ぶ場所があり、よく動物たちの姿をみた。カモシカの群れを見たのもその場所であり、サルの群れも良く見た。

2009年6月14日日曜日

13. 深夜の儀式 3

早足で十分ほど歩いて高賀神社にいき、手水場で手と口を清め、祭礼の儀式をおこなう。法螺の儀を唱え、法螺貝を吹く。護身法を切り、すり念珠をして、三礼をする。二礼二拍一礼をし、天地清之祝詞を上げ、般若心経を一巻、本覚讃を一遍、四弘誓願文を三遍、総回向文を一回唱え、ふたたび二礼二拍一礼をし、三礼をして、法螺の儀を唱える。

高賀神社のとなりにある収蔵庫には、蓮華峯寺にあった仏像が安置してある。中に入り、法螺の儀を唱え、三礼をし、護身法を切り、すり念珠をして、懺悔文を唱え、開経偈、大日如来真言を七遍、薬師如来真言を七遍、阿閦如来(あしゅくにょらい)真言を七遍、阿弥陀如来真言を七遍、観世音菩薩真言を七遍、虚空蔵菩薩真言を七遍、般若心経を一巻、光明真言を七回、本覚讃を一遍、四弘誓願文を一遍、回向文を一回唱え、三礼をして、法螺の儀を唱える。
それから高賀神社の近くにある登山道から、午前三時半ごろ登頂を始める。

2009年6月13日土曜日

13 深夜の儀式 2

禊を終えると、蓮華峯寺観音堂の階段を昇る。まず、荒神の祠に行き、閼伽水と榊を供え、三礼をし、法螺貝を吹く。それから二体ある地蔵に閼伽水と(しきみ)の花を供えて、それぞれに蝋燭二本と線香三本を立てる。三礼し、地蔵菩薩真言を二十一回唱えた。それから拍手を三回打ち、二礼二拍一礼をして、三礼、法螺貝を吹く。これを月二回、一日と十五日におこなった。
樒(しきみ)はときに高野槙になることもあった。
樒や高野槙は山に自生していた、ときどき隣山の蕪山に採りにいった。 観音堂に入り、結跏趺坐をして法螺の儀を唱える。それから山伏問答を読み上げ、法螺貝を吹き、三礼をした。護身法を切り、すり念珠をして、錫杖を振りながら、懺悔文、開経偈を唱え、三帰、三竟を三遍、十善戒、消災呪(しょうさいしゅう)を三遍、神仏をたたえる回向文を唱え、大悲呪(だいひしゅう)を一巻読み、先祖の霊をたたえる回向文を唱えた。それから大日如来真言を七回、不動真言を七回、大師法号を七回唱える。観音行を一巻、光明真言を七回、舎利礼文を一巻、本覚讃を一遍、四弘誓願文(しくせいがんもん)を三遍、総回向を唱え、すり念珠、三礼、法螺貝を吹き、観音堂をあとにする。

2009年6月12日金曜日

13. 深夜の儀式 1

泉で閼伽水を汲んで、高賀渓谷にむかうのが午前一時を過ぎた頃だ。
渓谷にかかる橋には、深夜にもかかわらず、私を見ようと集まった見物客が何人もいた。
岩場で着ていた作務衣を脱ぎ、ふんどし一枚の姿になる。 法螺貝を吹き、川に向かって三礼をする。護身法を切り、すり念珠をしてから、龍神大菩薩の真言を七回、八大龍王の真言を七回、不動呪を七回、光明真言を七回、唱える。それから水に浸かる。夏の禊は行水のように心地よい。

川原でキャンプをしている若者たちが私に気づき、近寄ってくる。
彼らはふざけて奇声をあげながら川に飛び込むと、私のそばで私が結ぶ印をまねた。
私は早口で般若心経を三遍唱え、川を出る。
それから、川に入るときとおなじように、龍神大菩薩の真言を七回、八大龍王の真言を七回、不動呪を七回、光明真言を七回、唱えた。
ふたたび三礼をし、法螺貝を吹く。
それから持ってきた修験装束に着替えると、午前二時ごろになる。

2009年6月11日木曜日

12. 小さな見性 3

叔母が、洗濯した私の修験装束を竿に干しているときに、パンパンと音をたてて叩き、両手で挟んだ布のしわを伸ばしていた。
毎日の洗濯はたいへんで、たいていの場合は叔母がやってくれていた。
ありがたいことと感謝はしていたが、どこかでそれを当たり前のことと思っていた。

叔母が用事で家を空けなくてはならないときには、私は自分で装束の洗濯をした。
洗濯機は古く、脱水機の代わりにローラー式絞り機がとりつけられたいた。
ゴム製のローラーの間に服を挟みこみ、取っ手をまわして水を絞る。
このとき絞りすぎると麻衣にしわができたので、力の加減が必要であった。
少し水が滴るぐらいに濡れた洗濯物を物干し竿に通し、手で叩いてしわを伸ばすと、乾いた時にアイロンをかける必要がないほどにピンとする。このことを叔母におそわった。

あるとき、私は手でパンパンと音をたてながら洗濯物のしわを伸ばしていた。
そのときに自分が無心でいることに気がついた。
見性を得るとは、禅宗において自分の心性を見極めることをいう。
邪念をいだき、日々の雑事に煩わされていることを嘆いていた気持ちが消え、日々の生活のなかに修行があることを悟ったのだ。

それから私は叔母に任せずに毎日自分で洗濯をした。

2009年6月10日水曜日

12 小さな見性 2

しかし、見られたいることは励みになった。
禊で唱える真言にも自然に力がこもった。

土曜日、日曜日ごとに見物客は増えた。不動の岩屋に行くと、先回りをして待っている者たちも現れた。私は無言のまま、何人もの同行者を引き連れ山に登ることもあった。写真を撮られることは日常茶飯となった。当時の私はちょっとしたスターであった。

注目されることは嬉しいことだった。しかし、比叡山で修行をしていたならば、もっと大きく報道されただろうし、身の回りの世話をしてくれる人が常にいて、修行だけに専念できる。山に登るにしてもお付きの人達と一緒だ。彼らは冬に休みながら千日を七年かけて行えばいいが、私は千日を冬場も休まず三年でおこなわなければならない。
そして、満行の暁には比叡山で回峰行をする行者のように名誉栄達が約束されているわけではない。そんな気持ちが芽生えたときに、私は小さな見性を得た。

2009年6月9日火曜日

12 小さな見性 1

高賀山は、閉ざされた山というわけではなかったので、登山者と行き交うこともあった。

修行を始めて二年目の夏に行き交う登山者の数が急に増え始めた。登山者たちが私を見て、「新聞にでていた行者さんだ」と囁く声が耳に入ってくる。後に知ったことだが、趣味で山の植物の写真を取りに来ていた中日新聞の記者が、修行中の私の姿をたまたま見かけカメラに収めたそうだ。それが記事になって掲載されたことを、記者本人が何年か経ってから連絡をしてきた。

記事がでてしばらくしてのことだと思う。私が高賀渓谷で禊をしている最中に、渓谷を見下ろす橋の上に、テレビ局の車が留まっていることに気がついた。その時は自分のことを撮影しに来ているのだとは思わなかったが、村人に、地元テレビ局のニュース番組に出ていたことを知らされた。

それからその橋には見物客が溢れ出した。多いときには三十人ほど集まった見物客は、それぞれに私に声をかけてきた。修行の最中は無言であることが基本なので、声をかけられてもそれに答えることはしない。取材のためにマイクを向けられたこともあったが、私は軽い会釈をしただけで、通り過ぎた。

2009年6月8日月曜日

11 不動の岩屋 2

月の輪熊に出会ったこともある。それは十一月のことで、熊は冬眠の前だった。
やはり峠に向かう勾配を登っているときに、熊が草叢の中に腰掛け、自分の手を嘗めている場面に出くわした。それまでになんどか見かけたことのある熊だった。懸命に手を嘗めているしぐさがなんとも愛らしく、私は足を止めてしばらくその姿を眺めていた。すると熊がこちらに気がつき、目が合った。
「しまったっ」とおもった。

私はすぐさま危険を感じ、下に向かって駆け下りた。熊はうなり声あげて向かってきた。私は木の枝につかまりながら、岩と岩の間を飛び跳ねていった。人はこんなこともできるのだなと我ながら感心するほどに、私はすばやく駆け下り、崖に回りこんで不動の岩屋に登った。熊は岩屋の下の道を止まらずにまっすぐに駆け抜けていった。

後に大峰山奥駆(おおみねさんおくがけ)で修行をしたときに、大日岳から前鬼坊の太古の辻までをどれだけの時間で駆け下りることができるか、競争したことがある。普通の登山者は一時間から一時間半かかるといわれる距離を、修験者は山駆けして四十分ほどで下りる。私は木の枝をつたい跳躍をくり返し、二十分で駆け下りた。修験者が天狗に例えられるのも、故のあることだと思った。

2009年6月7日日曜日

11. 不動の岩屋 1

目覚めるといつも力が漲っていた。すぐにでも山にいだかれたいという思いにとらわれる。月の出る夜は、昼間のように明るく岩々の肌理(きり)を黄色く照らす。
黒々と茂った草々は朝露に濡れ、その匂いが鼻腔を突いた。私の息は次第に荒くなり、汗ばんだ頬を風がやさしく撫でた。水気を含んだ空気が喉の奥の毛氈(もうせん)に触れ、渇きを癒す。

不動の岩屋に籠もり読経をする時間は、休息の時でもある。私は暗い窟のなかで心地よい疲れを感じながら安心していた。岩屋は昔から、修験者の修行場であり、旅人の休息の場であった。雨の日はこの岩屋で炭を起して暖をとることもあった。
雷や嵐の時には、ここに逃げ込めば安心だった。私は霊山とよばれる山をいくつも登ったが、不思議なことに、どの山にも五合目から上のあたりにこの岩屋に似た自然の巌窟があった。

私は何度かこの岩屋に救われたことがある。秋口のことだった。
この岩場を過ぎて御坂峠に向かう急勾配を歩いていると、猪が懸命になにかを食べている場面に出くわした。私が近づいたことで猪が振り向き、目と目が合った。
野性の動物は目が合うと相手を脅かす習性がある。猪は耳を立てて私を威嚇するしぐさをみせた。私がそ知らぬ顔をして通り過ぎると、猪は少し離れた藪の中を私に平行して歩いている。私は猪のほうを見ないように気をつけたが、猪がこちらを睨みながらついてくる気配を感じた。

私はゆっくりと後ずさりをした。低いうなり声を発し、猪は私をめがけて突進してきた。私は体をひるがえして急勾配を一目散に駆け下りた。後ろから私に向かって迫ってくる音が、ドッ、ドッ、ドッ、と聞こえた。 私は不動の岩屋の近くまで駆け下り、木から垂れ下がっていた蔦につかまると、ターザンさながらに飛び上がって、岩屋の上に飛び降りた。猪は岩屋の下をまっすぐ走り抜けていった。

2009年6月6日土曜日

10. 泉

昼に家に戻り、夕方五時に就寝するまでの数時間が、私の休息時間だった。
その間は仏教書を読んだり、ビニール紐で草鞋(わらじ)を編んだりして過ごすのが常だった。
たまに村人が訪ねてきてくれると、とても嬉しかった。

毎日五時に就寝し、八時間ほど寝て、深夜の一時に起床する。
いつもはそば粉とこうせん粉の団子を作るのだが、たまに塩おむすびを作ることもあった。
作務衣を着て家を出て、高賀渓谷で禊を終えた後、その場で修験装束に着替えた。

牛戻し橋を過ぎた場所に小さな泉があった。水はポコポコと音をたてて湧き出していた。周りには山葵(わさび)が自生し、イトヨという淡水魚が水中を泳いでいた。
私はそこで水を汲んで高賀神社にお供えをしていた。 お供え水のことを「閼伽(あか)水」という。修験道では、この閼伽をとても大切にする。その水は飲んでもとてもおいしかった。

私が毎日その閼伽水を汲んだ場所は、土地の人もほとんど知らなかった。
私はこの場所がとても気に入っていて、蓮華峯寺を再建するならば、是非この場所に建てたいと思っていたほどだった。

2009年6月5日金曜日

9. 孤独 2

子供の頃、祖父と山に入り捕まえては焼いて食べたマムシだが、もう彼らを食べたいとは思わなかった。彼らは私の修行中の孤独を慰めてくれる貴重な友達であった。

沢でいつも私が通るたびに鳴いて迎えてくれるガマガエルも友達だった。いつもの場所にいないと不安になって姿を探した。そして姿を見つけると、ほっとして、嬉しくなった。

小鳥の囀りも、姿がみえなくても、声を聞くだけでいつもどの鳥の鳴き声かわかた。その鳴き声は、私に声をかけてくれているのだとわかった。



私は動物達に接しながら、逸外老師に与えられた公案の答えを考えていた。「犬にも仏性があるか」という「問い」は、そのまま動物達にもあてはまった。私は彼らにも仏性があると思うようになっていた。彼らと親しむことは修行の楽しみとなった。

2009年6月4日木曜日

9. 孤独 1

修行も二年目に入ると体がきついということもなくなったが、今度はどうしようもなく人恋しさが募ってきた。

深夜に登頂を始め、下山をするのは昼頃。山の中で出会うのは動物たちだけだ。

不動の岩屋にいるマムシたちに対しても、次第に情がわいてくる。 私は里から生卵を持ってきて、岩屋の中におくようになった。翌日にはその卵は消えていた。マムシ達には縄張りがあるらしく、最初に私が卵を一つだけ置いた場所には体の大きなマムシが居座るようになった。

私はそれから三匹のマムシのために三個の卵を持ってくるようになった。するとしばらくしてマムシの数は四匹になった。彼らは声を出さないが、明らかにお互いの意思の疎通をしていることもわかった。四匹のマムシに卵を運んでいると、マムシの数は更に増え、五匹になった。私は体の小さなマムシのために、鶏の卵とは別にうずらの卵を用意した。

2009年6月3日水曜日

8. 甘露の雨 3

雨が冷たくても、それは甘露の雨だった。
なぜ千日回峰行をやろうと思い立ったかと聞かれるたびに、私はこう答えている。
それはわが人生を恨んでのことだと。

父の因縁が常に私に覆いかぶさっていたが、なぜか父を恨む気にはならなかった。
私が恨んだのは、私の運命だった。
なぜ私は生まれてきたのか。
私は何をしようとしているのか。

私は禅宗でも天台宗でも真言宗でも修行をした。
そのどこでも私の素性が問題にされた。
私は父の代わりに師を求めた。
しかし、私をかわいがってくれた師達は皆、すでに亡くなってしまい、私は自分の居場所を探していた。

そして、武藤一族の因縁の地である高賀こそが私の居場所だと思った。

2009年6月2日火曜日

8.甘露の雨 2

(妙法蓮華経薬草諭品第五)

其雨普等 四方倶下 流樹無量 率土充洽
山川険谷 幽邃所生 卉木薬草 大小諸樹
百穀苗稼 甘蔗蒲萄 雨之所潤 無不豊足
乾地普洽 薬木並茂 其雲所出 一味之水
草木叢林 随分受潤 一切諸樹 上中下等
称其大小 各得生長 根茎枝葉 華果光色
一雨所及 皆得鮮沢 如其体相 性分大小
所潤是一 而各滋茂 

「其の雨普等にして 四方倶に下り 流樹すること無量にして 率土充ち洽(うるお)う  山川・険谷の 幽邃(ゆうすい)の生いたる所の 卉木・薬草 大小の諸樹 百穀苗稼   甘蔗・葡萄 雨の潤す所 豊かに足らざること無く 乾地普く洽い 薬木並び茂り   其の雲より出づる所の 一味の水に 草・木・叢林 分に随って潤いを受く 一切の諸樹 上中下等しく 其の大小に称(かな)ひて 各生長することを得 根・茎・枝・葉・華・果・光・色   一雨の及ぼす所 皆鮮澤するところを得 其の体相 性の大小に分れたるが如く   潤す所是れ一なれども 而も各滋茂するが如く」

(雨が降り始めると、その雨は隈なく四方に等しく降り注ぎ、全ての土地が雨の潤いを受ける。
山も川も険しい谷の奥深い所の草・木・薬草や大きな木や小さな木、いろいろな穀物や甘蔗やブドウの木や植物は全て雨の潤いを充分に受けることになる。
乾いた大地も潤い、そのお陰で薬木も繁ってくる。
雨雲からの『一味の水』によって、草や木や藪や林等がそれぞれの分に従って水を吸収するのである。
その結果、一切の木々は上中下一様にその大小の性質に従って伸びることになる。
根や茎や葉や花も実も皆、雨に濡れて美しい光沢を帯びる。
草々や木々はその種類によって大きくなるもの、小さいままのものと分かれており、同じ雨、同じ水を同じように受けてもその成長はそれぞれ異なるのである)

2009年5月31日日曜日

8. 甘露の雨 1

暑さや寒さには慣れたが、雨の日は辛かった。
修験専用のビニール製の合羽があったが、風のある日などは役に立たず、装束は濡れるとずしりと重くなった。大雨の日など水が濁流になって山道を落ちてくる。
下山のあとに、泥だらけになった衣を洗濯するのだが、替えの衣をいくつも持っているわけではない。だから雨の日が続くと、生乾きの衣を着る羽目になった。毎日の洗濯も大変だった。叔母がやってくれることもあったが、なるべくならわずらわせたくないと思い、自分でやった。

地下足袋は底がゴム製で修験専用の丈夫なものを選んだが、それも月に二、三足は履きつぶしていた。布の部分が破れ、そこから川蛭(かわひる)が入って来た。
川蛭は脚袢(きゃはん)の下をくぐり抜けて腿のあたりまで登り、血を吸った。川蛭は梅雨時には増えたので、山から降りて装束を脱ぐと、よく足にへばりついていた。大きいものは三十センチぐらいあった。

足に出来た肉刺(まめ)が潰れ、その潰れた肉刺の上に新たな肉刺が出来た。托鉢で鍛えた脚であり、千日行を始める前の準備として、すでに百日行を行っていたが、やはり毎日休みなしに続けるのは体に堪えた。風邪を引き、熱を出したこともあったが、休むわけにはいかなかった。
誰が見ているわけではなかったが、仏さまは見ていると思っていた。

2009年5月30日土曜日

7. 夏の光 2

私は腰を上げて、熊笹に囲まれた登山道を下り始めた。 御坂峠に差し掛かると、あたりは杉や檜などの人工林だ。 この先に峰稚児(みねちご)神社がある。大きな岩の上に立てられた小さな祠だ。 高賀神社の奥の院として、かつては多くの修験者が訪れた。 江戸時代には円空上人による雨乞いの祈祷が行われたという記録もある。 私はここでも法螺貝を吹き祝詞を挙げた。

登山道を五合目まで下ったところに不動の岩屋がある。中に入り蝋燭を立て読経をする。 しばらくの間、姿が見えなかったマムシたちが、また現れるようになった。マムシは三匹おり、それぞれの縄張りである岩の間に寝そべっていた。当初はとぐろを巻き警戒する様子を見せていたが、私が毎日そこに現れることがわかると、体をだらりと伸ばし鎌首をもたげることもなく、静かに私の読経を聞いていた。

岩屋を出て沢沿いの坂道を下る。足で岩を捉えて降りるのだが、毎日繰り返しているうちに、どこにどんな石があるかすっかり覚えてしまった。いまでは目をつぶっていても歩くことができるほどだ。
暑さで汗をかいていたが、岩の下を流れる水の音が涼しげで心地よい。

藪の中で猪が地面を掘っているのが見えた。ウリ坊を二匹連れているからメスだろう。 そのウリ坊がとてもかわいいのでしばらく見とれていたが、親猪が気配に気がついてこちらを見たので、あわてて足早にその場を立ち去った。野生の動物は目を合わせると危険だ。

途中、双葉葵(ふたばあおい)が群れて生えている場所を通ったが、葉っぱが食べられていて葉柄だけが残っていた。おそらく鹿だろう。 秋に日本カモシカが五、六頭で群れを作っていたのを目撃した。群れを見るのはとても珍しいことだ。

沢に小さな渡し木がかかる場所があり、その近くの岩の上でガマガエルが私を出迎えた。一匹の同じガマガエルがいつも同じ岩にいて、私が近づくと必ずホーッと鳴く。
このガマガエルの頭を撫でるのが私の日課だった。ガマガエルの皮膚はぬるっとしていて、確かに油を出しているようだった。ガマの油というのは本当に効くのか試してみようと、笹の葉で切った腕の傷に塗ってみたことがあるが、真っ赤に腫れ上がってしまった。ガマの油の口上はあまり信用がおけない。

木の上から山蛭が落ちてきた。山蛭は、私が下を通ると狙い定めたように首筋から背中に入った。私が山を降りて装束を脱ぐ頃には、沢山の血を吸い、真っ赤に膨れあがっていた。多いときには二十匹もの蛭が体に張り付いていた。吸われた後の痛みもさることながら、白い装束が赤く血で染まるのが困り物だった。

沢地を抜けると人工林が続く。現在の高賀山は、杉や檜などの針葉樹の植林が進み自然林が少なくなっている。人工林には野生の動物が住むことができない。最近はこれらの動物らが里に現れて、作物を荒らしているという。山奥に食べ物がなくなったせいだ。林道を通す計画が修行をしているこの時期に始まったが、それが出来ることによる自然破壊を思うと私の心は痛んだ。

2009年5月27日水曜日

7.夏の光 1

高賀山での夏のご来光は五時半だ。 
東の空から西に流れる雲の端が明るく輝き始めると、私は山頂から少し降ったところにある天狗岩に登って法螺貝を吹いた。
登ってくる太陽に向かって三礼をして護身法を切る。
「いらたか」とよばれる算盤玉の形をした念珠をすり合わせた。
錫杖(しゃくじょう)を振りながら、懺悔文、開経偈(かいきょうげ)、般若心経を三巻読み、回向文(えこうぶん)を唱え、消災呪(しょうさいしゅう)、大悲呪(だいひしゅう)を一巻読み、ふたたび回向文を唱えた。
次に太陽に向かって大日如来の真言を二十一回唱え、北に向かって釈迦如来の真言を十七回、東に向かって薬師如来の真言を十七回、南に向かって阿閦如来(あしゅくにょらい)の真言を七回、西に向かって阿弥陀如来の真言を七回唱える。
それから光明真言(こうみょうしんごん)を二十一回唱え、本覚讃(ほんがくさん)を一遍、四弘誓願文(しくせいがんもん)を三遍唱え、「願わくはこの功徳をもってあまねく一切に及ぼしわれら衆生とみなともに仏道を成ぜんことを」と回向文を唱えた後、法螺貝を吹き、太陽にむかって再び三礼をした。
それから腰をおろして、お供えしてあったそば粉の団子とこうせん粉の団子を食し、水筒に入れてきた熱いお茶を飲んだ。

早朝の山頂は涼しくて心地よい。
東の方角には御嶽山が見える。西には伊吹山、南の方角には白々ヶ峰が連なり、北の方角には蕪山が間近に見える。山の自然にもすっかり親しんできた。

2009年5月24日日曜日

6. 定め

行を行うものはそれによって得られる名誉栄達を求めていると思われがちだが、そうではない。
比叡山で千日回峰行を二回満行された酒井雄哉氏にしても、仏門を志すきっかけに妻の自殺があったという。そこには言い尽くせぬ苦しい思いがあったに違いない。

人は誰しも業を背負って生きている。
この業は宿命とも宿業ともいい、ときに「定め」ともいう。
自分はやくざの息子に生まれたという定めが、私を苦しめつづけた。
変えられない定めに、私は何故生まれてきたのか、何をなすべきなのかをいつも考えていた。

千日回峰行は、行の途中で挫折をすれば自ら命を断つ掟を持つ。 
私は挫折したら死ぬ覚悟を決め、そのための短刀を持ち腰につけていた。
山頂でまず唱えるのが懺悔文である。

我昔所造諸悪業 (がしゃくしょぞうしょあくごう)
皆由無始貪瞋痴 (かいゆむしとんじんち)
従身語意之所生 (じゅうしんごいししょしょう)
一切我今皆懺悔 (いっさいがこんかいさんげ)

「我れ昔より造りし所の諸々の悪業は、皆、無始の貧瞋痴に由り、身語意より生ずる所なり。一切、我れ、今、皆、懺悔したてまつる。」

これは、「私が昔から作ってきたいろいろの悪い行いは、みな避けがたい貪りと怒りと無知による身体と言葉と意識のなす行為から生じたものであります。その全てを、今、御仏の前に悔い改めます」という意味である。

私は自分の生い立ち、そして若き日の悪行を恥じていた。 
回峰行を始めて最初のひと月ほどは肉体的に精一杯だったが、五月ともなると徐々に身体も慣れてきて、ものを考える余裕がでてきた。
そうすると心に浮かぶのは過去のことばかりになった。
私は自分の過去を思うと、このまま山で死んでしまっても構わないとさえ思うようになった。

2009年5月22日金曜日

5.千日回峰行 2

山の中腹に不動の岩屋と呼ばれる場所があった。
不動の岩屋は大きな二枚の岩が重なってできていて、上の岩の下にも、下の岩の下にも大きな空洞があり、人が何人か入ることができる広さがあった。
その岩屋を通り過ぎると、石が階段状に連なる急勾配が続く。

吐息が白くなった。四月の高賀山にはまだ雪が残っていて、木々はまだ新芽を出す前だった。
里ではようやく梅の花が咲こうとしている時期のことである。

御坂峠を越えると尾根道が続く。まだ未明に山頂に着き、明けの明星を眺め、そこで再び読経を行う。しばらくすると、遠く木曾御嶽山の方角が白々と明けてくる。
やがてご来光を仰ぐと、私は肩から掛けた法螺貝を取って吹いた。
太陽はやがて山の麓を照らし、私は山頂から自分の育った場所を見下ろした。

私は自分がここにたどり着くまでの因縁に思いを馳せた。
因縁とは因果の理(ことわり)のことだ。この世の全ての事柄は原因と結果によって成されている。
ヒンドゥ教(初期バラモン教)などでは前世の業により現世が形成されると教義しているが、仏教の宗祖である釈迦は更に縁起を説いた。
縁起は縁ともいい、全ての出来事は縁がある。仏教ではそれを因果律といっている。
人は前世からの因縁によって現世の生を受ける。祖先に僧侶がいたが、私の父と母は無信心だった。私は宗教とは無縁の環境で育ち、奇妙な縁で仏門に入った。

2009年5月21日木曜日

5.千日回峰行 1

千日を行う前に、百日の前行、四十九日の加行を修し、武藤宮司から初めて入峰を許された。
回峰行は四月一日から始めた。
毎朝午前一時半に起床し、洗面を済ませると、そば粉と荒塩を混ぜて捏ねた団子と、こうせん粉に少しの砂糖を混ぜた団子を作り、袋に入れて出発する。
山は漆黒の闇に包まれていた。山に入るためには禊は不可欠である。

私は着ていた作務衣を脱いで岩場の上に置き、川の中へ入った。
四月の高賀渓谷には山頂からの雪解け水が流れ込んでいる。水の冷たさが身体を打つ。
私は一心に真言を誦(じゅ)した。
水からあがると私は先ほど脱いだ作務衣をリュックサックにしまい、持ってきた荷物の中から鈴懸(すずかけ)を取り出した。
それから掛衣(かけごろも)を首から掛け、貝ノ緒(かいのお)を巻き、尻には引敷(ひつしき)を当てる。白足袋を足に着け、手甲脚袢(てっこうきゃはん)を手足に付け、頭巾(ときん)を額にあてた。
錫杖(しゃくじょう)を手に持ち、法螺貝(ほらがい)をくびからつるし、短刀を腰に納めた。
山伏の修験装束である。禊を終え、蓮華峯寺観音堂で読経を終えると午前二時を回る。
高賀神社で祝詞をあげ終わるのが午前三時半である。

高賀神社の前の林道をしばらく行くと登山口が現れる。登山道は厳しい岩場である。
私は暗闇の中を一歩一歩、足で岩をとらえて登り始めた。

2009年5月20日水曜日

4. 木作 2

木作という地名は、ここが木地師(きじし)の里であったことを表している。
木地師とは、各地の山を巡って斧で木を切り、轆轤(ろくろ)をまわして椀や盆、木鉢、杓子などを作ることを認められていた人達のことだ。
朝廷の由来書を持ち歩き、山々を自由に渡り歩くことが出来た。
木作の近くには小倉という地名があった。
これも木地師に多い名で、この地域一帯が木地師の里であったことを物語っている。
木地師の祖は惟喬親王(これたかしんのう)といわれる。
惟喬親王が法華経の巻物の紐を引くと巻物の軸が回転するのを見て、轆轤を考案したというのが伝説だ。
発祥は滋賀といわれるが、一説にはこの木地師が忍者の祖ともいわれる。
峯々をつたって各地を巡る木地師は広範な情報網を持っていた。 
その一部が戦国大名と結びつき隠密行動をするようになったと考えることは、不自然なことではない。山伏もまた峯々を歩いた。木地師は忍者と山伏の先祖で、両者は同じものだった。
史書を紐解いてみると、この高賀の里の民が甲賀の忍者のルーツであると考えられる証拠がある。
修験道が盛んなこの土地の僧侶を信長が殺さなければならなかった理由も、彼らの諜報活動にあった。
彼らを殺すことで信長は自分にとって不都合な事柄を歴史の闇に葬り去ったのだ。
そんな歴史の因縁を知るにつけ、私は自分に課せられた使命を感じずにはいられなかった。

2009年5月19日火曜日

4. 木作 1

初めて高賀の地を訪れてから数年がたった。
その間に高賀神社の宮司第49代、武藤三郎氏知遇を得て、私は千日の発願を立てた。
私は托鉢の最中に比叡山を訪れ、千日回峰行者が歩く行者道を歩いてみた。
そのときに、これなら私にも出来ると思った。
ただ天台宗の本山である比叡山でやりたいとは思わなかった。

当時私は天台宗の僧侶であったが、やたらに金ばかりかかる宗門にうんざりしていた。 
得度にも僧籍を得るのにも金ばかりかかった。
それにあまりにも堕落した僧侶の世界を見ていた。 
そんなことから、私は自分の因縁の地である高賀山で比叡山やほかの山に対抗して、千日回峰行を復興したいと思ったのだ。

千日回峰行をやるにあたり、私は木作(きつくり)にある父の実家に世話になることにした。
家の前に板取川が流れ、三千淵(さんぜんぶち)があった。
ここは、かつて織田信長によって三千人の僧侶が殺された場所と言い伝えられている。
現在の洞戸村の人口は300人ほどでしかないが、信長の時代には三千人の僧侶が集まるほど、洞戸は蓮華峯寺を中心に栄えていた。
蓮華峯寺の寺歴は失われたらしく、残ってはいない。
創建が養老七年といわれる奈良時代から続く由緒のある寺だった。
信長は何故ここを攻めなければならなかったのだろうか?

2009年5月17日日曜日

3.神仏習合

神社仏教の修行の場となるのは、神仏習合(しんぶつしゅうごう)という日本独特の信仰形態があったからだ。
渡来の宗教である仏教は古来の神道融合し、神と仏は同等のものに考えられるようになった。
奈良時代から神社には神宮寺といわれる寺が建立された。
高賀山にも養老7年に蓮華峯寺(れんげぶじ)という神宮寺が創建されている。

修験道とよばれる山岳信仰もまた神仏習合思想によるものだ。
山を神とする古来の信仰に、神道、仏教、道教などの思想が組み合わさったこの独特の宗教は、奈良時代に確立した。
白山信仰が有名だが、高賀山も高賀権現(ごんげん)として奈良時代から信仰されてきた。
権現とは神の仮の姿をいう名前だ。 
修験道の実践者を修験者(しゅげんじゃ)といい山伏(やまぶし)ともいった。
彼らは山に籠もって修行をすることにより、様々な「験」(しるし)を得ることを目的とした。 

慈海大禅師は高賀山で千日回峰行を三度満行(まんぎょう)したとつたえられている。
千日回峰行とは、千日の間休むことなく山の峰を歩くとそうぎょうである。
相応大師が比叡山で始めた回峰行が現在まで伝わり有名なので、千日回峰行というと比叡山の専売特許のように思われがちであるが、全国にはこのような山岳霊域が五十以上あると言われている。
いつしか私は、先祖である慈海大禅師が高賀山で行った千日回峰行を復興したいという思いに囚われた。



2009年5月15日金曜日

2. 因縁

私の俗名は武藤であるが、この地には多くの武藤姓が住んでいた。
私は自分の先祖を調べて、五代前と六代前、七代前の先祖に僧侶がいたことが分かった。
五代前は禅海道喜(ぜんかいどうき)禅師、六代前は豊恂義覚(ほうじゅんきかく)大和尚、七代前は慈海了空(じかいりょうくう)大禅師と名乗る江戸時代中期の人だった。

慈海了空大禅師は真言密教を研鑽し、後に天台宗の僧侶になり晩年は禅師の号を授かり七十四歳で遷化(せんげ:亡くなること)した。
慈海了空大禅師は高賀山、瓢ヶ岳(ふくべがたけ)、今淵ヶ岳(いまぶちがたけ)の三山を一昼夜山駈けし、六神社を参拝する抖藪行(とそうぎょう)の中興の祖であった。
抖藪行(とそうぎょう)とは歩く修行のことである。

長良川と板取川に挟まれた高賀山脈には、高賀山の山脈に高賀神社があり、山の北側に本宮神社、新宮神社、東側には星宮神社が鎮座し、瓢ヶ岳の南の山麓には金峰神社、今淵ヶ岳の南の山腹には瀧神社がある。
この六社をめぐる「高賀六社めぐり」という信仰集団が形成され、江戸時代の中期から後期にかけて活躍した。
慈海了空大禅師はその中心的な存在だったと思われる。

2009年5月14日木曜日

1. 導かれて 4

私は禅宗から仏門に入り、この場所を訪れたときは天台宗の修行僧であった。
後に真言宗の修行をすることになるのだが、関心はつねに山岳信仰にあった。

私はその頃、毎月どこかの山に登っていた。
帯広の剣山、出羽三山、富士山、立山、木曾御嶽山、伊吹山、養老山脈、御在所岳、熊野三山、葛城山、四国の剣山、石鎚山、英彦山、求菩提山、開聞岳、などである。
修行で訪れた場所でもあり、普通の登山の場合もあった。

最初に訪れてから私は『洞戸村史』等を手に入れ高賀山を調べ始めた。
するとそこが、かつて白山の禅定門(ぜんじょうもん)と呼ばれた山であることを知った。
この地には奈良時代の中期から多くの修験者が集まり修行の場とした。
修験者は高賀山を入り口にして峰々をつたい白山まで行ったそうだ。 

私は何度か高賀山に登り白山への道を探したが見つけられなかった。
しかし、その頃には高賀という山の魅力にとらわれ逃れられなくなっていた。
調べるほどに、この土地と私の因縁が深いことがわかってきたからだ。

2009年5月13日水曜日

1.導かれて 3

標高1224メートルのその山は岐阜県の中濃地区で一番高い山だ。
瓢ヶ岳(ふくべがたけ)、今淵ヶ岳(いまぶちがたけ)と共に高賀三山と呼ばれ、大きな山塊をなしている。

山腹には高賀神社があった。
神社の近くに円空記念館があって、この場所が円空ゆかりの地であることが分かった。
円空とは江戸時代の前期に活躍した天台宗の僧侶で、「円空仏」とよばれる多くの木彫りの仏像を作った仏師として知られていた。
美濃国(現在の岐阜)に生まれ、白山信仰の修験者(しゅげんじゃ)となった。

修験者というのは一つの寺に定着せず、あちこちの霊山を巡り修行するものをいう。 
円空は日本各地を巡り仏像を残した。
その数は十二万体におよぶという。
その彼が晩年を過ごしたのが、高賀だった。

私は記念館に納められた三十体あまりの仏像を眺めて大きな感銘を受けた。
円空は優婆塞(うばそく)の修験者から、後に禅・真言密教を経て、天台宗寺門派の僧侶になっていくのだが、私も同じ経験をしていることを思うと強い因縁を感じずにはいられなかった。
優婆塞とは在家の仏教信者のことだ。

2009年5月12日火曜日

1. 導かれて 2

その声のことがいつまでも気になっていた私は、実家に帰った折、母にそのことを告げた。
おかしなことを言うと返されると思っていたが、母の返事は意外なものだった。
「それは高賀山のことやろう」と言った。
「高賀山てなんや?」
「洞戸(ほらど)の高賀山やがな」
「実家のある洞戸か?」
「そうや」

両親の実家は岐阜の洞戸(現在は関市洞戸地区)というところにあった。
子供の頃によく訪れた土地だが、高賀山のことはそのときまで知らなかった。
しばらくしてから、岐阜市内にある自宅から車で一時間ほどかけて、その場所を訪れてみた。
国道265号線を板取川に沿って北上すると洞戸村に着く。 
高賀山はその北端にあった。

2009年5月9日土曜日

運命と宿業 1.導かれて

私が最初に行った山岳行場は白山だった。
天台宗の修行僧だった当時の私にとって、白山は是非とも登っておきたい山の一つだった。白山には三度登頂したが、二度目に登ったときに不思議な光景を見た。

未明の山頂で御来光を待ちながら読経をあげていたときのことである。空が白々と空けてくる頃、北の山肌に人影がぼんやりと立ち現れ、その周りを後光のような光の輪が囲んだ。いぶし銀のように輝いて見える影の形はちょうど御仏の座姿のようであった。
これはブロッケン現象と呼ばれる自然現象なのだが、そのときは知識がなかったので、とても神秘的な体験に思えた。実は光の屈折が作り出す蜃気楼で、人影に見えたのは自分自身の影だった。山を降りてそれを聞かされたときは、ひどくがっかりしたことを覚えているが、貴重な体験だった。この現象は御来迎(ごらいごう)とも呼ばれ、昔は阿弥陀如来が姿を現したと考えられていたそうだ。

不思議なことは、三度目に白山に登ったときにも起こった。やっとの思いで山頂にたどり着き、息も絶え絶えにリュックサックを下ろし座ろうとしていたときに、何処からともなく「こうか、こうか」と言う声が聞こえた。 その時は気のせいだと思い、あまり気にも留めなかったのだが、下山のとき七合目あたりで、「こうか、こうか」と繰り返す声がはっきりと聞こえた。私は不思議な心持に囚われたまま山を降りた。