2009年7月18日土曜日

7. 大森曹玄(おおもりそうげん)老師 1

私の剣術における師である大森曹玄(おおもりそうげん)老師に出会ったのは十九歳のことだ。大学の授業にも剣道があった。しかし顧問の教師は僧侶であり剣道の有段者としては私のほうが上であった。私は部長という立場を与えられ、あまり授業にでない教師の代わりに同じ学生達の指導をしていた。その時の私は、自分自身の剣を高めるために一人で鍛錬する以外になかった。私がその頃愛読していた書物が、大森曹玄老師の『剣と禅』である。直心影流(じきしんかげりゅう)剣術の形を今に伝える大森曹玄老師は、剣をする者の憧れであった。大学で国文学を教えていた成瀬教授がたまたま大森曹玄老師と交流があり、私が老師に傾倒していることを知って、一度相見させてもらえることになった。

2009年7月17日金曜日

6. 仏道を志す

私が二回生になったときに新入生として入ってきた後輩が、
「柳ヶ瀬でヤクザ大勢を相手に喧嘩して木刀でボコボコにやっつけたあの武藤さんですか?」と訊いてきた。
「ヤクザと喧嘩した奴などたくさんおるやろ」
「いいや武藤さんのことは伝説になっています。 岐阜中で有名ですよ。」
私の過去は校内に知れ渡っていたが、この大学に入学してからの私は真面目な学生だった。授業も真面目に受け、成績も優秀だった。
二回生になったからといって後輩にむやみに暴力を振るうこともしなかった。

この頃に逸外老師が妙心寺の管長になられ正眼寺を離れられた。それに伴い学長が変わり、校風が変わった。私は七期生だったが、荒々しい気風を体験した最後の世代となた。それ以降はごく普通の大学と変わらなくなってしまった。
新しい学長は立派な方だったが、私とはそりが合わなかった。逸外老師がいらした頃には許されていたことも、新しい学長の下ではゆるされなかった。私にはそれが不満だった。

十九歳になった私は自分の将来を仏道と見定めるようになっていた。当時の正眼寺短期大学では一般学生は卒業すればそれなりの企業が受け入れてくれたのだが、私は尊敬する逸外老師の下で修行をしたいという希望を持っていた。
しかし、妙心寺管長になられた逸外老師は、もはや雲の上の存在である。ある時、大学を訪れられた逸外老師にこの思いをぶつけたところ、老師の実弟である梶浦宗覚師が住職を勤める真福禅寺の小僧になることを許された。

2009年7月16日木曜日

5. 拳骨(げんこつ)

先輩達に殴られることは日常で慣れっこになったが、元ヤクザといわれる岡野は少し違った。理由など特になくても殴ってきた。 目が合うと、「なんだその目は?」と言われる。「何でもありません」と答えると、「ふざけるな」といわれて殴られた。
誰もが怖がって、この岡野と目を合わせようとしなかった。私はこの岡野に目をつけられた。意味もなく呼び出されると、生意気だという理由で殴られた。私はこの岡野だけは許せなかった。いつか仕返しをしてやろうと思っていた。

いつも殴られている一回生が、年に一度、憂さ晴らしをする儀式があった。
「どやし」とよばれるその儀式は、学校が黙認する無礼講だった。その日だけは一回生は二回生を殴ってよい決まりになっていた。 この機会に私は岡野をやっつけよう心に決めていた。正月休みで実家に帰った折に模造刀をもちだした。

節分の日の夜、飲み会を開いた。その時に二回生をとことん酔っぱわせる。その後、二回生を真っ暗な体育館に引き入れる。そこには一回生が待ち構えていて、一斉に殴りかかる。二回生も抵抗するがなにしろ酔っ払っていて、一回生は素面(しらふ)だ。私は岡野に狙いを定め摸像刀で殴りつけた。その晩は大乱闘になった。翌朝は血だらけの体育館にみんなで倒れていた。岡野は大怪我をして病院に運ばれた。
そしてそのことは学校で問題となった。いくら学校が黙認してきた伝統行事とはいえ、怪我人をだすのは初めてのことである。この事件をきっかけに私がヤクザの息子であるという素性が皆に知れた。私はここでも怖れられる存在となった。

2009年7月15日水曜日

4. 脱走者

私には素晴らしい環境であったが、耐えられない者たちもいた。
それは決まって寺の息子達だった。 退学も落第も許さない校風だったので、辞めるには逃げ出すほかない。
同期生の何人かは逃げ出した。同室だった正田(仮名)もそうだった。大きな寺院の跡取りであることを鼻にかける話し方をする正田はみんなにいじめられた。 それに耐えられなくなり、ある日学校からいなくなった。来る者を拒まない学校だったが、去るものは追った。
いなくなったことに気が付いた我々が追いかけたら、正田は山の中の一本道をとぼとぼと歩いていた。我々に引きずり戻されると、先輩達にボコボコに殴られた。
正田は懲りずにまた逃げた。我々は先回りして駅で捕まえた。 
逃げ出す先は実家の寺とわかっていたから、その寺の門前で待ち構えて捕まえたこともある。

正田は都合四回脱走を試みた。
一本道ではすぐ見つかると知った彼は、四回目に山の中に逃げた。
入学して四ヶ月後のことである。正田の行方はそれっきりわからない。

2009年7月14日火曜日

3. 寮の一日 3

朝食の後、掃除があり、それを済ませると八時半。大学の授業は九時から始まり、午後三時までカリキュラムがびっしり詰まっていた。一般教養と専修科目の他、茶道、華道、書道があり、剣道、柔道、少林寺拳法などの武術も必修とされた。他校のようにスポーツなどの部活はなく、講義後の活動は武術だけだった。
厳しい環境であったが、私の性に合った。私は初めて真剣に、がむしゃらに勉強をした。
自分にそんな一面があったことが、自分でも意外だった。先輩達に殴られるのは辛かったが、ここでは私は疎外感を感じずに済んだ。殴られるのは後輩達はみな同じだった。先輩達はそれを「慈悲の拳骨(じひのげんこつ)」とよんだ。臨済宗は、元来、武家の宗教だったせいもあり荒々しさを売りにしていた。特に正眼時は「鬼の正眼」とよばれていて、この大学もその気風を引き継いでいた。

寮に戻ってもテレビがあるわけでもなく、楽しみといえば酒だけだった。日本酒の一升瓶を抱えて毎日部屋で飲んだ。飲んで話すことと言ったら、禅とは何か、といった真面目な話である。
私はここで、人生とはなにか、自分の将来はどうあるべきか、といったことを考える時間を得た。生まれて初めて仲間を持てたと思った。元自衛官の吉本(仮名)だけはそんな仲間に加わらず、毎日外に一人で飲みに出かけていた。消灯は九時だったが、みな蝋燭の灯りで飲み続けた。
寮の各部屋には、どこも同じように蝋燭の灯りが揺れていた。

2009年7月13日月曜日

3. 寮の一日 2

日の出の時刻には持久走が待っている。毎日四キロを雨天でも走る。
ときおり持久走の代わりに作務があった。庭の草刈などである。
それが終わって朝食だ。 当番制で学生が作る朝食は粥(しゃく)とよばれお粥よりゆるい重湯(おもゆ)で米粒が数えられた。これに漬物がついて一汁一菜(いちじゅういっさい)だ。

臨済宗では食事も修行の一環なので、楽ではなかった。一切の音を立ててはならないのが戒だった。食事中に話すことはもちろん、粥をすする音、漬物をかむ音、箸を置く音も許されない。
食堂(じきどう)に二回生と一回生が交互に座り、沢庵を噛む音がすこしでもしたら、横にいる二回生の拳骨が飛んできた。私は沢庵漬を食べるのが怖くて、飲み込むようにして食べるようになった。

2009年7月12日日曜日

3.寮の一日 1

寮の朝はとても早い。 直日(じきじつ)とよばれる当番が、振鈴(しんれい)を鳴らしながら叫ぶ「開静(かいじょう)」の声で起される。
すばやく寝具を片付け、洗面をすませ外に出ると、まだ真っ暗だ。
体育館(禅堂)に学生全員が集められ、読経と座禅で一日が始められるのが午前四時半。約四十分の読経は一週間で経本一冊の暗記を求められる。
その後、およそ一時間の座禅がある。
壁を背に二列に向かい合って座り、真ん中を寮監と二回生の直日が警策(けいさく)を持って監督する。警策とは座禅中に眠気を催した者や心を乱した者を打つ痛棒のことで、これを行ずる者には力の加減など繊細な技術が必要なため、本来なら修行の進んだ者しか行うことができない。
寮監は資格を得た僧侶であったため上手に警策を打てたが、二回生は力任せに打ちつけてきたので、打たれるほうはたまらなかった。