2009年7月31日金曜日

10. 公案 3

私は逸外老師に接見するために何度か妙心寺を訪れた。逸外老師は管理職で忙しかったにもかかわらず、いつも接見してくださった。
公案の答えを述べると、毎回、無言で一蹴された。
あるとき、この問いの答えは「父母未生以前(ぶもみしょういぜん)の本来の面目」を考えてみないとわからないと言われた。
これは「自分の両親が生まれる前は何であったか」という問いである。老師は、私が自分の生い立ちに苦しんでいることを見抜いておられたのだ。
私は、逸外老師の弟子としてこれからも生きていきたいという希望を持っていた。
しかし老師は、私に外の世界に出ていくことを勧められた。
「修行の場は娑婆(しゃば)の世界だぞ」
と老師は言われた。
「ここにいる雲水たちは寺の息子たちだ。彼らは良くも悪くも二、三年ここで修業すれば跡取りとして住職となる。しかしお前はもともと坊主の息子ではないのだ」
そう言われ、私は落胆した。
老師はさらに
「いつでも、ここにいらっしゃい。そのときは一服のお茶でも飲もうぞ」
とおっしゃった。
私は、つい初関の公案を通していただくことはなかった。しばらくして逸外老師は病に倒れ遷化(せんげ)されたからだ。

2009年7月30日木曜日

10. 公案 2

私は
「隻手(せきしゅ)の音声(おんじょう)です」と答えた。
これは、両手をバンと鳴らしたときに右手と左手のどちらが鳴ったか、を問うもので、初関(初めて授けられる公案)として、よく使われるものだ。
逸外老師は、
「私も公案を授けよう」と言い、
「趙州(じょうしゅう)和尚。因(ちなみ)に問う。狗子(くし)に還って仏性ありやまた無しや」
と問われた。
これは「趙州の無学」といわれる公案で、趙州和尚に弟子が
「犬にも仏性があるでしょうか」と訊き、
和尚が「無」と答えたという話である。
私は逸外老師に頂いた公案を持って翌日から参禅し、師匠の宗覚師に、
「犬には仏性はありません」
と答えると、宗覚師は、ガハハッ、と笑われた。
また翌日参禅し、今度は
「犬に仏性はあります」
と答えると、宗覚師は大声で笑われるばかりだった。
ひと月後に逸外老師がお見えになった。私は自分の答えを逸外老師にぶつけた。
老師は、むっと口を閉じたまま、何もお答えにならずにそのままどこかへ行ってしまわれた。

10. 公案 1

宗覚師が修行されたのは臨済宗国秦寺派で、逸外老師が管長になられた妙心寺派とはちがった。本来であれば、私も師匠と同じ国秦寺で修業をすべきであった。
しかし私には逸外老師の弟子でありたいという思いがあったので、真福禅寺の小僧をしながら妙心寺派の正眼寺に直参(じきさん)していた。そこで、しばしば正眼寺住職の谷耕月師の接心(せっしん)を受けることもあった。
管長職をされていた逸外老師にお目にかかる機会は限られていたが、月に一度ほど宗覚師を訪ねていらっしゃることがあった。

ある日、真福禅寺にいらした逸外老師が私を見かけて、こう尋ねた。
「谷耕月師からは、どんな公案を授けられたかね?」
公案とは禅宗において師から弟子に出される「問い」のことをいう。
この「問い」を座禅しながら熟考し、自分なりの「答え」を見出して、師と向き合う。
生半可な答えは師に一蹴される。このやり取りが、いわゆる「禅問答」である。

2009年7月28日火曜日

9. 真福禅寺 3

宗覚師は逸外老師が理事長をされていたとき、正眼短期大学の副学長をされていた。とても面倒見がよく、私たち学生を飲みに連れて行ってくれたりして、かわいがってくれた。
逸外老師が妙心寺の管長になられて正眼寺を離れられた後に、正眼寺の住職になられたのが、逸外老師の一番弟子である谷耕月(たにこうけつ)師であった。
同時に、谷師は梶浦逸外老師の後を継いで正眼短期大学の理事長になられた。
正眼寺と正眼短期大学はいわば一体であったからだ。このときに追われるように大学を去ることになるのが宗覚師である。
我々学生は当然、宗覚師が次の理事長になるものと思い込んでいた。しかし、宗覚師は逸外老師の実弟ではあったが、弟子ではなかったのだ。

2009年7月27日月曜日

9. 真福禅寺 2

私は小僧として毎月三万円の小遣いをもらい、真福禅寺から四年制の仏教大学に通っていた。三回生として編入したのだが、仏教を学問的にとらえることに疑問を感じ、あまり勉強に身が入らなかった。
それに当時は初めての恋愛に夢中になっていて、小僧としての修行もおろそかになっていた。車を得た私は、後の妻となる彼女との一泊旅行を計画していた。しかし、それは小僧の身分では許されることではなかった。私は、当時指導に通っていた町の剣道教室の合宿があるとウソをつき、彼女と旅行に出かけた。その夜、私は交通事故を起こしてしまった。警察から真福禅寺に連絡がいき、宗覚師がすぐにタクシーを飛ばして駆けつけてくれた。幸い相手の怪我は軽度のものだった。私はさんざんに叱られたが、示談金を支払ってくれたのは宗覚師である。

2009年7月26日日曜日

9. 真福禅寺 1

私が真福禅寺で得度式を迎えたのは十九歳の七月のことであった。得度とは僧侶になるための出家の儀式をいう。
宋覚(そうかく)師が執り行い、髪の最後の一結びは逸外老師が剃り落してくれた。
式には父と母が出席した。父は六年の刑期を終え、出所したばかりであった。
母は一人息子が坊主になることをあまり喜ばなかったが、父はなぜか宗覚師を気に入り、しばしば真福寺を訪れては宗覚師と酒を飲み交わす仲となった。しかし私はいささか肩身の狭い思いをしていた。息子が得度するときは、その実家が師匠寺にお礼をするのが一般的だが、我が家にはお金がなかった。一切の面倒は宗覚師が見ていてくれた。こんなこともあった。
長い間、刑務所に入っていた父が、私に迷惑をかけたお詫びとお祝いを兼ねて何か買ってやろうと言った。私は当時、スクーターに乗って真福禅寺の檀家回りをしていたので、車が欲しいと父にねだった。父は私に中古の車を買い与えた。いまでもよく覚えているが、マツダ・ルーチェという車種だった。父はその車を知り合いのヤクザから買ったのだが、結局、その代金を払えなかった。ヤクザは真福禅寺に取り立てに来た。宗覚師は黙ってその代金を払った。私は宗覚師に車を買ってもらったと同じだった。