2009年8月7日金曜日

12. 流転 4

幼い頃の私にとって、父は誇らしい存在だった。羽振りのよかった時代の父は、よく興行で三波春夫氏をよんだ。その三波春夫氏の膝に抱かれた記憶がある。私はお坊ちゃんとして優雅な幼少時代を過ごした。
結局、父がヤクザにならざるをえなかったように、私は僧侶になるしかなかったのだ。サラリーマンをしながら、私は天台宗で修業をして僧侶の資格を得た。
会社の経営に関わっていた頃は、長期の休みを取って山歩きをした。白山で「こうか」の声を聞いたのも、その頃のことだ。私の心は次第に、修業に専念したいという思いにとらわれていた。ある日、経営する販売会社の社長と経営の方針をめぐり対立し、私は辞任することになった。その際、自分の所有する株をすべて社長に買い取ってもらった。それから私は一年間の托鉢の旅に出た。

2009年8月6日木曜日

12 流転 3

私は岐阜に家を建て、私の母と、一人暮らしをしていた父方の祖母を呼び寄せて妻と二人の子供とともに住まわせた。そのとき、私の人生は順風満帆に思えた。しかし私は家庭を省みることをしなかった。結局、私は自分の父親と似た道を辿っていたのであろう。

父の最初の仕事は、愛知県にあった東海地方で最初に出来た自動車学校の教官兼副校長だった。まだ自動車が珍しかった時代のことである。自動車学校の教官をしているということは誇らしいことだった。
その後、ある会社の創業に関わり、その会社を上場させるまでに発展させた。それから自分の運送会社を作り、トラック十数台を有するまでに至った。
当時の東海地方では一番大きな会社だったと聞いている。この会社に専務として入った父の弟が手形を乱発し、会社を倒産させてしまう。
岐阜に夜逃げで来たのは、私が小学二年生のときだ。岐阜に来てからは父は自動車の販売会社をしていたのだが、次第にヤクザとの付き合いが始まり、私が中学二年生のときには自らの組を立ち上げるに至る。いつも家にいないので、その頃の父のことを私はほとんど知らない。

2009年8月5日水曜日

12 流転 2

学校を辞めて、まず私が始めたのは土方(どかた)である。解散した父の組の組員だった男が土建屋をやっていて、そこで肉体労働を三ヶ月やった。
次にもっと時給の高い解体業に移った。それも父の組のつながりであった。そのとき、大型免許を持っていなかったにもかかわらず、私は十一トントラックを運転した。その仕事は四ヶ月続いた。
次に本の訪問販売セールスの職についたが、これは自分に合わず一ヶ月で辞めた。次に私は商事会社のサラリーマンになった。時代はバブル経済に向かう途上であり、証券はとても儲かった。父の借金は三千万円ほどで、主にサラ金からのものだったが、私はサラリーマンをしながら順番に返していった。借り先のサラ金は二十数社に及んだ。その借金を数年で返し終えた。私のセールスの成績は優秀だった。小豆相場で大儲けしたこともあった。

ある日、営業で訪れたある会社で、私の顧客であった社長が自分の会社で開発した機械を見せてくれた。それは電線を覆う皮膜を自動で切断する機械だった。それまでにも同じような機械はあったのだが、大型で高価だった。その会社はゲーム機器などの製作をしていたのだが、その基盤はたくさんの配線が必要で、作業の合理化のために独自に小型の機械を独自に作った。それを見せられた私が「これは他社にも売れますよ」と言うと、私の顧客であるその社長は自分もそう思うと言い、ただ自分のところには販売網がないから、私に作って欲しいと請われた。私は販売会社を作って、そこの専務に納まった。商品はアメリカのNASAに納入されるほどにヒットし、会社は業績を順調に伸ばした。

2009年8月4日火曜日

12 流転 1

教師の仕事にはやりがいを感じていた。ちょうどテレビドラマで「金八先生」が流行っていたころで、私も熱血教師をめざした。
しかし、現実はドラマのようにはいかなかった。正眼短期大学のような厳しい教育は、大人になりかかった十九、二十歳には適していたが、まだ幼い高校生には無理があった。生徒数の多いマンモス高校では、様々な問題が相次ぎ、生徒と学校の間に立った私はいつも苦しい立場に立たされた。結局、私の教師生活は一年しか続かなかった。原因の一つに父が再び逮捕されたことがある。父が刑務所に入ると、父の作った借金が保証人である母の元へかぶってきた。私は母を援助していたが、その金額はとても教師の給料で追いつくものではなかった。私は勤めていた会社に相談をした。すると理事長の息子である副理事長が、「武藤先生のお父様はその筋の方でしたか。それではうちの学校にふさわしくありませんね」といった。
その一言で私は学校を辞めた。

2009年8月3日月曜日

11. 結婚 2

ある日、用があって正眼寺に電話をしたとき、谷耕月師が病気で入院したという知らせを聞いた。私は彼女を連れてお見舞いに行った。すると私たちは谷耕月師が入院されてから訪れた最初の見舞客だった。
耕月師は私たちが来たことを非常に喜んでくれた。そして彼女をフィアンセであると紹介すると、喜んで仲人になることを引き受けてくれた。そのことを師匠である宗覚師に報告をしにいくと、口では祝ってくれたが、なんとも寂しい表情をされたのが忘れられない。真福禅寺とは、そのまま疎遠になってしまった。
その後、谷耕月師は、子どもが生まれたときに名付け親になるなど、なにかと私たち夫婦をかわいがってくれた。そんな経緯があったのだが、結局、耕月師は結婚式に出席していない。理由は、私の父にあった。母と一緒に挨拶にいったのだが、ヤクザ者の父は相手が誰であろうと関係なくぞんざいな口を利いた。耕月師はその時まで私の父がヤクザの組長であることを知らなかった。妙心寺派の高僧である谷耕月師が、ヤクザと同席することはやはり難しかった。

2009年8月2日日曜日

11. 結婚 1

谷耕月師は、その後も正眼寺に来ることを勧めてくれたが、そのことを宗覚師は快く思わなかった。子供がいなかった宗覚師は、私に自分の寺を継がせようという思いもあったようだ。 
私は大学を四年生の秋に中退してしまった。その後の自分の進むべき道を探しあぐねていたときに、谷耕月師の薦めがあって、ある全寮制私立高校の教師兼寮監として赴くことになった。それは生前の逸外老師が私のために用意してくれた道でもあった。逸外老師は遷化される前に私に「住職にならずに、僧侶になりなさい」と言い残していた。
私自身も修業はつづけたいと思っていたものの、どこかの寺に収まってしまうことには魅力を感じていなかった。正眼寺大学で人生を変えられるほどの体験をしたと思っていた私にとって、正眼寺大学と同じように人間を作るという理想を掲げた全寮制の高校で教鞭を取ることは打って付けに思えた。
高校で教師を始めてからすぐに私は今の家内との結婚を決めた。結婚することを宗覚師に申し出たときに、師匠はへそをまげてしまって結婚式にはでないと言い出した。私は困ってしまった。